夫婦の冷徹な会話③ 佐川の胸の内
玄関の大理石に映る、自分の膝。
そこに落ちた水滴が、涙なのか、床を拭いた水なのか、もう分からなかった。
——奥様が厳しいのは、いつものこと。
命令は理不尽で、言葉は鋭い。
冷たい視線で見下ろされることも、顎を持ち上げられることも、慣れている。
傷つかないわけではない。
けれど、予測はできた。
奥様は、そういう人だ。
強く、冷酷で、自分より下を明確に線引きする人。
だから耐えられた。
“これは役目だ”と、飲み込めた。
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だが、今日は違った。
旦那様。
あの人は、いつも静観していた。
奥様が叱責しても、横で腕を組み、ただ見ているだけ。
冷たいが、直接刃を向けることはなかった。
それが——
「嫌なら出て行け」
あの一言。
胸の奥を、真正面から刺されたようだった。
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奥様に言われる「出て行け」は、試す言葉だ。
従順かどうかを見るための、確認。
でも旦那様のそれは違った。
感情がない。
揺らぎがない。
本当に、いなくなっても構わないという響き。
それが、怖かった。
⸻
私は、ただの使用人。
それは分かっている。
元の立場がどうだったかも、過去も、ここでは関係ない。
でも——
旦那様は、どこか一線を引いてくれていると思っていた。
奥様の怒りと、自分との間に、透明な壁のようなものがあると。
今日は、それが壊れた。
むしろ、奥様以上に冷たかった。
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「慈悲で置いてやっている」
その言葉が、頭から離れない。
慈悲。
私は、慈悲で存在している。
必要だからではなく、情けで。
そう明確に言われた瞬間。
足元が崩れた気がした。
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出て行け、と言われたとき。
一瞬、ほんの一瞬。
本当に出て行けたら、と考えてしまった。
だが、次の瞬間には理解する。
行く場所はない。
帰る家もない。
誇りも、財産も、もう何もない。
だから、膝をついた。
謝るしかなかった。
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奥様の厳しさは、ある意味で秩序だ。
私は下。
奥様は上。
明確だ。
だが旦那様の冷酷さは、存在そのものを否定する。
「替えがきく」
言われなくても、分かっている。
でも、あの目で見下ろされた瞬間、はっきりと悟った。
私は、本当にどうでもいい存在だ。
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それでも。
なぜか胸の奥が痛むのは、期待していたからだろうか。
旦那様は、完全には無関心ではない、と。
どこかでそう思っていたのかもしれない。
それが砕けた。
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奥様よりも、旦那様の一言の方が重い。
それが悔しい。
自分が、まだ“上を見ている”証拠だから。
下の立場のはずなのに。
それでも、あの冷たい声に、心が揺れた。
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床を磨きながら、思う。
私は何者なのだろう。
元は、奥様のように命じる側だった。
今は、命じられる側。
そして旦那様にとっては、ただの機能。
存在価値は、働きだけ。
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けれど、出て行けない。
出て行く勇気もない。
ここにいることでしか、生きられない。
だから今日も、黙って磨く。
夜が明けるまで。
誰にも必要とされなくても。
せめて、完璧に掃除された床だけが、自分の証になるように。




