夫婦の冷徹な会話②
黒塗りの車は、夜の街を滑るように走っていた。
後部座席。柔らかな革張りのシートに、妻は夫の胸に身を預けている。
深紅のドレスの肩が少しずれ、宝石が静かに揺れる。
夫の腕はその肩を抱き寄せているが、視線は前を向いたまま、どこか冷たい。
しばらく沈黙が続いたあと、妻が小さく口を開いた。
妻「……あなた。」
夫「なんだ。」
低く、抑えた声。
妻「今日は、珍しく口を出されましたね。」
夫は答えない。グラスの氷が小さく鳴る。
妻「いつもは、私に任せてくれるのに。」
妻は彼の胸元に指を滑らせる。
妻「どうして?」
一瞬、車内の空気が張り詰める。
夫はゆっくりと視線を落とし、妻を見る。
夫「……気になったのか。」
妻「ええ。」
夫「何が。」
妻はほんのわずかに眉を寄せる。
妻「佐川の様子が。」
その言葉に、夫の腕がわずかに強くなる。
夫「様子?」
妻「あなたがあそこまで冷たく言うなんて……。出て行け、なんて。」
夫は鼻で笑った。
夫「同情か?」
妻「違うわ。」
夫「なら何だ。」
妻は一瞬言葉を探す。
妻「……あなたが、あの女に向けた声が、少しだけ……違った気がしたの。」
沈黙。
次の瞬間、夫の腕が外れる。
妻の体が軽く前に揺れる。
夫は正面を向いたまま、低く言った。
夫「お前は、俺のなんだ。」
唐突な問い。
妻は目を瞬かせる。
妻「……え?」
夫がゆっくりと顔を向ける。
その目は、優しさの欠片もない。
夫「聞こえなかったか。お前は、俺のなんだ。」
妻の喉が鳴る。
妻「……あなたの、妻です。」
夫「それだけか?」
妻「……愛している人。」
夫の手が、妻の顎を掴む。
強くはない。だが、逃げられない。
夫「違う。」
低く、冷たい。
夫「俺の“もの”だ。」
妻の呼吸が止まる。
妻「……あなた……」
夫「佐川の様子が気になる?」
顎を持ち上げられる。
夫「俺が、あいつにどう言ったかが気になる?」
妻「……少し、だけ……」
夫はゆっくりと笑う。
だが、その笑みは温度がない。
夫「お前はな、俺の機嫌だけ取っていればいい。」
静かに、断言する。
夫「他のことを考えるな。」
妻「……」
夫「佐川がどうなろうと、どう震えようと、どう泣こうと。」
声が低くなる。
夫「お前が気にする必要はない。」
妻の瞳が揺れる。
妻「でも……」
顎を掴む手が強くなる。
夫「“でも”?」
妻「……あなたが、あの女に関心を持ったように見えたから……」
夫の目が鋭く光る。
夫「関心?」
妻「……少しでも。」
一瞬、車内の空気が凍る。
次の瞬間、夫は妻を強く引き寄せる。
彼女の体が彼の胸に押し付けられる。
夫「勘違いするな。」
耳元で囁く。
夫「俺が興味を持つのは、お前だけだ。」
妻の指が、彼のシャツを掴む。
妻「……本当に?」
夫「佐川は、道具だ。」
冷酷な断言。
夫「壊れれば替えればいい。」
妻「……」
夫「だが、お前は違う。」
一瞬だけ、声に熱が混じる。
夫「お前は、俺が選んだ。」
妻の胸が上下する。
妻「じゃあ……どうしてあそこまで?」
夫はゆっくりと離れ、妻を見下ろす。
夫「お前が揺れたからだ。」
妻「……揺れた?」
夫「あいつに向いた視線が、ほんの一瞬でもあった。」
妻は息を呑む。
妻「嫉妬、ですか?」
夫は静かに笑う。
夫「違う。」
妻「なら……」
夫「牽制だ。」
冷たい一言。
夫「俺の視界に入るのは、お前だけでいい。」
妻「……」
夫「お前が他のものを見るなら、俺はそれを壊す。」
妻の背筋に寒気が走る。
妻「佐川も?」
夫「必要なら。」
迷いのない答え。
夫「お前が俺のものだと忘れないようにするためなら、何でもする。」
妻の瞳に、複雑な光が宿る。
恐れと、安堵と、歪んだ幸福。
妻「……私は、あなたのもの。」
夫は満足げに頷く。
夫「そうだ。」
妻「なら……」
妻は彼の胸に再び身を寄せる。
妻「私は、あなたの機嫌だけ取っていればいいのね。」
夫「それでいい。」
グラスの氷が溶ける音。
車は夜の街を抜けていく。
夫は窓の外を見ながら、淡々と言う。
夫「他の女のことを考える時間があるなら、その分、俺を見ろ。」
妻は小さく笑う。
妻「はい、旦那様。」
彼女の指が彼の胸をなぞる。
妻「あなた以外、見ません。」
夫は視線を落とし、その顔を見つめる。
夫「忘れるな。」
妻「はい。」
夫「お前は、俺の唯一だ。」
静かに、しかし支配的に。
車は闇の中を進み続ける。
遠く離れたタワマンの最上階で、
まだ床を磨き続けている一人の女のことなど——
夫は、もう一度も口にしなかった。




