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終わらぬ転落  作者: ありり
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夫婦の冷徹な会話①

夜のタワーマンション最上階。

大きな窓の向こうに広がる都会の灯りが、冷たく室内を照らしていた。


玄関ホールの大理石の床に、佐川は膝をついている。

毛玉だらけでほころびた茶色のカーディガンは、汗と埃でくすんでいた。黒いスカートの裾も床に擦れ、静かに震えている。


その前に、深紅のドレスを纏った奥様がゆったりと膝を折り、顎を指先で持ち上げる。


妻「……顔を上げなさい、佐川。」


低く、冷えた声。


佐川は恐る恐る視線を上げる。

妻の瞳は、氷のように静かで、残酷だった。


妻「今日、私たちは出かけるわ。夜遅くなるかもしれない。」


佐川「……はい、奥様。」


妻「その間に、リビング、寝室、書斎、水回り、すべてやり直しなさい。」


佐川「……やり直し、でございますか?」


妻はふっと笑う。


妻「そう。やり直し。お前が朝に掃除したものは、掃除とは呼べないから。」


佐川の喉が小さく鳴る。


佐川「……ですが、朝五時からすべて終えております。床も、窓も、棚も——」


妻「口答え?」


一瞬で空気が凍った。


妻の指が顎を強く押し上げる。


妻「お前が『やりました』と言えば、それで十分だと思っているの?」


佐川「い、いえ……」


妻「私が満足していないの。分かる?」


佐川の視線が揺れる。


佐川「……奥様、どうか……本日は荷物運びもございましたし……これ以上は——」


その瞬間、背後に立っていた夫が、ゆっくりと口を開いた。


普段、ほとんど口を出さない男。

ただ静観し、妻の判断を尊重してきた男。


低く、冷酷な声が落ちる。


夫「嫌なら、出て行け。」


佐川の体が、びくりと震えた。


佐川「……旦那様……?」


夫「ここは俺たちの家だ。命令が不満なら、ドアはあそこだ。」


指先が玄関を示す。


夫「行き場があるなら、今すぐ出て行け。」


妻はゆっくりと立ち上がり、夫を見上げる。


妻「あなた……」


夫は佐川を見下ろしたまま、淡々と続ける。


夫「俺は普段、口を出さない。だがな、勘違いするな。」


一歩、近づく。


夫「ここに置いてやっているのは、慈悲だ。」


佐川の呼吸が荒くなる。


夫「お前が元は何だったかなど、関係ない。今は、ただの雇われ人だ。」


佐川「……申し訳ございません……」


夫「違うだろ。」


夫の声が鋭くなる。


夫「“出て行きたくありません”だろ。」


佐川の目に涙が溜まる。


佐川「……出て行きたく、ありません……」


夫「なら、何をすべきか分かるな?」


佐川は深く頭を下げ、床に額がつくほど伏せた。


佐川「申し訳ございませんでした……奥様。旦那様。私の分をわきまえぬ発言でした……」


妻は、ゆっくりとその姿を見下ろす。


妻「最初からそう言えばいいのよ、佐川。」


かすかな微笑み。だが温度はない。


妻「お前の役目は、考えることじゃない。」


佐川は震える声で答える。


佐川「……はい、奥様。」


妻はバッグのチェーンを鳴らしながら、冷たく命じる。


妻「リビングの床、隅まで磨き直しなさい。窓は内側も外側も。キッチンはシンクを分解して洗浄。寝室のクローゼットは中身をすべて出して整理。」


淡々と続く指示。


妻「浴室のタイルは歯ブラシで目地を一本ずつ。洗濯機の裏も忘れずに。私のドレッサーは指紋ひとつ残さないで。」


佐川の喉がひくりと動く。


佐川「……今夜中に、でしょうか。」


妻はゆっくりと顔を傾けた。


妻「まさか。私たちが帰るまでに、よ。」


夫が付け加える。


夫「もし一箇所でも手抜きがあれば——」


佐川は恐る恐る顔を上げる。


夫の視線は冷たい。


夫「明日から寝床は玄関だ。」


佐川の血の気が引いた。


佐川「……玄関、でございますか……」


夫「嫌なら、出て行け。」


同じ言葉。


容赦なく、繰り返される。


佐川は必死に首を振る。


佐川「いえ……いえ……やらせていただきます……どうか……ここに置いてください……」


妻はゆっくりと踵を返す。


妻「分をわきまえなさい、佐川。」


ドアへ向かいながら、最後に振り返る。


妻「お前は“使われる側”。それ以外の立場は、ないの。」


夫はその横に立ち、無表情のまま言い放つ。


夫「俺たちが帰るまで、休むな。」


佐川「……はい……」


ドアが閉まる音が、重く響いた。


静寂。


広いタワマンに、佐川ひとり。


震える手で雑巾を握り直す。

大理石の床に、ぽたり、と涙が落ちる。


だが、すぐに袖で拭い、立ち上がる。


——出て行け。


その言葉が、何度も頭の中で反響する。


行く場所はない。

帰る場所もない。


だから、膝をつくしかない。


床に這うようにして、佐川は磨き始めた。


夜景の光が、彼女の小さな背中を冷たく照らしていた。

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