夫婦の甘い会話② 佐川の胸の内
浴室の床に膝をつきながら、佐川はタイルの目地をゆっくりと磨いていた。
水の音の向こうから、リビングの笑い声がかすかに届く。
「ホテルに泊まろう。お前の誕生日だろ」
「本当に? あなたがそんなこと言うなんて」
柔らかな声。
迷いなく“祝う側”の声。
――誕生日。
胸の奥が、静かに波立つ。
(……二人で祝ってもらった記憶、ないわね)
元夫と向かい合ってケーキを食べた記憶はない。
ろうそくを立てて、写真を撮った記憶もない。
「今日は特別だ」と言われたことも、思い出せない。
忙しい人だった。
誕生日当日も、たいてい不在。
帰宅しても、日付が変わってから。
一度だけ、箱を渡されたことがある。
小さな黒いケース。
中には細いネックレス。
「俺の成功の証のネックレス」と一言だけ
ただ嬉しかった。
“覚えていてくれた”ことが。
けれど二人で祝ったわけではない。
食卓にはいつも通りの料理。
会話もいつも通り。
特別な空気は、なかった。
(あれが、唯一の誕生日らしい出来事)
先日、奥様に連れられて質屋へ行った。
「これ、本物かしら?」
無邪気な声音。
査定士の淡々とした声。
「……五十円です。メッキですね」
五十円。
その数字よりも、
“ほとんど価値はありません”という言葉が、胸に刺さった。
奥様は笑った。
「あなたの思い出、安いのね」
売るつもりはなかった。
だが、ネックレスは戻ってこなかった。
「没収しておくわ。五十円でも、あなたにはもったいないでしょう」
そう言われ、そのまま奥様の引き出しにしまわれた。
今はもう、手元にもない。
(五十円の思い出すら、私のものではない)
ブラシを持つ手に力が入る。
けれど――
誕生日に、まったく何もなかったわけではない。
思い出すのは、屋敷の使用人たちの顔。
執事がこっそり用意してくれた小さなケーキ。
家政婦仲間が集まって、拍手をしてくれたこと。
「おめでとうございます、奥様」と笑ってくれたこと。
あの時、元夫は帰っていなかった。
だが、使用人たちは集まってくれた。
忙しい合間に。
自分たちの持ち場を抜けてまで。
(……あの人たちが祝ってくれた)
今になって、ようやく気づく。
あの時間が、どれほど温かかったか。
当時は当たり前だと思っていた。
“奥様だから祝われて当然”と。
けれど今は違う。
今は、誰かのために浴室を磨く側。
リビングから、また笑い声が届く。
「最高の誕生日にしてやる」
「約束よ?」
約束。
自分には、そんな約束はなかった。
けれど――
(私は、祝われていた)
元夫ではなく、
立場でもなく、
義務でもなく。
あの使用人たちは、本当に笑っていた。
あの小さなケーキの甘さ。
拍手の音。
少し照れくさそうに歌ってくれた誕生日の歌。
胸が、じわりと温かくなる。
ネックレスは没収された。
五十円の価値と言われた。
けれど。
(あの拍手は、値段がつかない)
水を止める。
静かな浴室に、自分の呼吸だけが響く。
今は誰かの誕生日を整える立場。
祝う側ですらない。
それでも。
(あの人たちに、ありがとうって言いたい)
あの時は気づかなかった。
当然だと思っていた。
今ならわかる。
祝われることは、贅沢だ。
ネックレスはなくなった。
けれど記憶は、まだ自分の中にある。
床を最後に拭き上げ、佐川は立ち上がる。
「……はい、終わりました」
小さく呟く。
自分の誕生日は、もう遠い過去。
それでも、
かつて祝ってくれた人たちの笑顔だけは、
誰にも没収されていなかった。




