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終わらぬ転落  作者: ありり
転機
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夫婦の甘い会話①

タワマン最上階の広いリビング。

大きな窓の向こうには、まだ明るい夕暮れの街並みが広がっている。


玄関では、茶色の毛玉だらけのカーディガンをきちんと前ボタンまで留め、白いブラウスと黒いスカート姿の佐川が、無言で雑巾掛けをしていた。

床に映る夫婦の影が、ゆっくりと重なる。


リビングのソファでは、夫が妻の顎に指を添え、軽く持ち上げる。


夫「……最近、よく話すようになったな、俺たち」


低く穏やかな声。


妻は少し照れたように目を細める。


妻「ええ。嬉しいです。あなたとこうして話せる時間が増えて……前よりずっと」


夫「前より?」


妻「前は仕事ばかりだったでしょう?今は……ちゃんと私を見てくれる」


夫はわずかに笑う。


夫「なら、もっと時間を作るか」


妻「どうやってですか?」


夫「使用人を増やす」


その一言に、妻の眉がぴくりと動く。


妻「……増やす?」


夫「家事の負担を減らせば、お前と過ごす時間が増える」


妻はじっと夫を見つめる。


妻「でもあなた、かっこいいし……クールだけど優しいし……絶対モテるもの」


夫「急にどうした」


妻「使用人が若くて可愛い子だったら?嫉妬の対象が増えます」


夫は鼻で笑う。


夫「嫉妬してるのか」


妻「してないわけないでしょう」


夫「嬉しいな」


妻「……なにがですか」


夫「俺を取られるかもしれないって思ってるってことだろ?」


妻は少し頬を染め、視線を逸らす。


妻「……増やすのは絶対嫌。今のままでいいです」


夫「そうか」


夫はクールに微笑む。


夫「お前が嫌なら増やさない」


妻「本当ですか?」


夫「ああ。俺が欲しいのは“時間”であって、他の女じゃない」


その言葉に、妻の表情がぱっと明るくなる。


妻「……もうすぐ5月ね」


夫「誕生日だな」


妻「覚えてました?」


夫「当たり前だろ」


妻は嬉しそうに身を寄せる。


妻「この前言ってたテーマパーク、一緒に行ってくれますか?」


夫「ああ。行こう」


妻「日帰りでいいですよね?」


夫「いや……せっかくだ。ホテルに泊まろう」


その提案に、妻は目を見開く。


妻「本当に?あなたが?」


夫「たまにはいいだろ。誕生日なんだし」


妻「……嬉しいです」


夫「そんな顔するな」


妻「どんな顔?」


夫「今にも泣きそうな顔」


妻は笑う。


妻「だって、あなたがそんなこと言うなんて思わなかった」


夫「俺はお前が思ってるより甘い」


妻「知ってます」


甘い空気が漂う。


その様子を、玄関の床に膝をついたまま、佐川は聞いていた。


(……今だろうか。いや、もう少し……)


雑巾を絞る手がわずかに震える。


(空気を壊したら……)


二人の笑い声が重なる。


(でも、報告しないと……)


佐川はそっと立ち上がり、足音を立てぬよう近づく。


佐川「……奥様」


妻の表情が一瞬で変わる。


さっきまでの柔らかな笑みは消え、冷たい目になる。


妻「なに?」


佐川「玄関の清掃が……完了いたしました」


妻「遅いわね」


佐川「申し訳ございません」


妻「そんな報告、今じゃなくてもよかったでしょう」


佐川「……失礼いたしました」


夫は黙って見ている。


妻は腕を組む。


妻「それで終わり?」


佐川「……他にご指示があれば」


妻「あるに決まってるでしょう」


声が冷える。


妻「浴室、まだよね?」


佐川「はい……これから」


妻「今すぐ行きなさい」


佐川「かしこまりました」


妻「鏡、蛇口、排水溝、全部完璧に。水垢一つでも残っていたらやり直しよ」


佐川「……はい」


妻はさらに続ける。


妻「床は隅まで。タイルの目地も。今日は念入りに」


佐川「承知いたしました」


夫がゆっくり口を開く。


夫「風呂は広い。時間がかかるだろ」


妻は夫に微笑む。


妻「大丈夫です。あの人は“それが仕事”ですもの」


そして再び佐川へ。


妻「佐川」


佐川の足が止まる。


妻「私たちの時間を邪魔しないこと」


佐川「……申し訳ございません」


妻「返事は短く」


佐川「はい」


佐川は深く頭を下げ、浴室へ向かう。


リビングでは再び甘い空気が戻る。


妻は夫に寄り添う。


妻「さっきの話、ホテルはどこがいいかしら」


夫「お前が選べ」


妻「じゃあ、一番夜景が綺麗なところ」


夫「任せる」


遠くで水の流れる音が響く。


浴室で、佐川は黙々と蛇口を磨く。


(……誕生日、か)


手に力が入る。


リビングでは夫が妻の顎を再び持ち上げる。


夫「お前の誕生日だ。最高にしてやる」


妻は微笑む。


妻「約束ですよ?」


夫「ああ」


その甘い囁きと、浴室で響くブラシの擦れる音が、同じ空間に静かに重なっていた。

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