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終わらぬ転落  作者: ありり
転機
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笑顔の代償

タワマン最上階の玄関ロビー。

大理石の床に、夕方のやわらかな光が落ちている。


インターホンが鳴る。


佐川「……はい、ただいま参ります」


茶色の毛玉だらけのカーディガンを整えながら、佐川は静かに扉を開けた。


そこに立っていたのは、いつもの若い配達員だった。赤い帽子に、まだ少しあどけなさの残る笑顔。


配達員「こんにちは。いつもありがとうございます」


佐川「い、いえ……こちらこそ、いつもお世話になっております」


佐川は両手で丁寧に段ボールを受け取る。

配達員の指が、ほんの一瞬触れる。


配達員「重くないですか?」


佐川「大丈夫です。慣れておりますので」


配達員「毎日いろいろ大変そうですよね。こんな高層階で……」


佐川は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく微笑んだ。


佐川「ええ……でも、これが私の仕事ですから」


配達員は少し躊躇いながら言った。


配達員「お手伝いさんも、ほんと大変そうですよね。朝も早そうですし……」


その一言に、佐川の胸が微かに震える。


労われることなど、ほとんどない。

命令と叱責ばかりの日々。


佐川「……そう、ですね。でも……ありがとうございます」


声がわずかに弾んだ。


配達員「体だけは壊さないでくださいね」


佐川「……はい」


ほんの数秒の、温かい会話。

佐川の頬が、ほんの少しだけ緩む。


配達員「それでは失礼します!」


エレベーターの扉が閉まる。


静寂。


その直後、背後からヒールの音が響いた。


妻「……随分と楽しそうだったわね」


冷たい声。


佐川の背筋が凍る。


振り返ると、妻が腕を組み、無表情で立っていた。

宝石が照明に反射して鋭く光る。


佐川「お、奥様……」


佐川「何を話していたの?」


佐川「いえ、その……お仕事のお話を……」


妻「嘘は嫌いよ」


一歩、近づく。


妻「笑っていたわね」


佐川の喉が鳴る。


佐川「……失礼いたしました」


妻「お前、勘違いしているのではなくて?」


佐川「……」


妻「お前は“家族”でも、“知り合い”でもない。役立たずの使用人よ」


沈黙。


妻「配達員と対等に会話する立場だと、誰が許可したの?」


佐川「も、申し訳ございません……」


佐川は床に視線を落としたまま震える。


妻「笑う暇があるなら、仕事をしなさい」


段ボールを指さす。


妻「それ、すぐに中身を確認して、収納庫に。

それから——」


一瞬間を置く。


妻「今日は玄関ホール、床全部磨き直しなさい」


佐川「え……」


妻「聞こえなかった?」


佐川「い、いえ……」


妻「さっき立っていた場所から、この扉の内側全部。手でよ」


佐川の指先が強張る。


佐川「……雑巾で、でよろしいでしょうか」


奥様は冷笑した。


妻「お前のカーディガンでやりなさい」


佐川「……っ」


妻「どうせ毛玉だらけでしょう。雑巾と同じよ」


言葉が、刃のように刺さる。


佐川「……承知いたしました」


妻「それと」


妻はさらに続ける。


妻「夕食後、ワインセラーの棚、一本ずつ拭き上げて。

それが終わったら、窓ガラス全部。内側だけでいいわ」


佐川「……はい」


妻「終わるまで寝なくていいわよ」


佐川「……」


妻「何か不満?」


佐川「いえ……」


妻「さっきの笑顔、もう一度見せてみなさいよ」


佐川は必死に口角を上げる。


引きつった、不自然な笑み。


妻は鼻で笑った。


妻「気持ち悪いわね」


ヒールの音が遠ざかる。


妻「忘れないで。

お前がここにいる理由は、労われるためじゃない」


振り向きざまに言い放つ。


妻「使われるためよ」


玄関に静寂が戻る。


佐川は膝をつき、毛玉だらけのカーディガンの袖を外し、

床に押し当てた。


冷たい大理石。


袖に染み込むほこり。


——さっきの「体を壊さないでくださいね」という言葉が、頭の奥で反響する。


ぽたり、と。


涙が一滴、床に落ちた。


すぐに、袖で拭き取る。


「……私は、使用人です」


小さく呟きながら、何度も、何度も床を擦る。


笑顔の代償は、終わらない夜だった。

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