最上階の光と、床に伏す影
タワマン最上階の玄関。
夜景を背にした大きな窓から、冷たい光が床に落ちている。
静まり返った空間に、ヒールの音が響いた。
扉が開くと同時に、佐川は額が床につくほど深く跪いた。
佐川「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」
掠れた声。
五時から働き続けた身体は震えている。
それでも背筋は必死に伸ばしていた。
妻は赤いドレスの裾を優雅に持ち上げ、ゆっくりと中へ入る。首元の宝石が光を受けて冷たく輝く。
その後ろで夫は無言で腕を組み、二人を見下ろしていた。
佐川は視線を上げることなく、両手を差し出す。
佐川「お荷物を、お預かりいたします」
妻の手にあるベージュのキルティングバッグ。
それは、今日のディナーの席でも一際目立っていた高級品だった。
佐川の指先が、そっと鎖の持ち手に触れようとした瞬間――
パシッ。
鋭い音とともに、妻の手が佐川の手を弾いた。
妻「触るな」
低く、冷たい声。
佐川の指先が床に落ちる。
一瞬、何が起きたのか分からず、顔を上げてしまう。
その視線を、妻は見下ろす。
妻「ボロ雑巾が、このバッグに触るなと言ったのよ」
静かな口調。だが、刃のように鋭い。
佐川は慌てて額を再び床に押し付けた。
佐川「も、申し訳ございません……!」
妻はしゃがみ込み、佐川の顎を指で持ち上げる。
無理やり視線を合わせさせる。
妻「分かってる? このバッグ、お前の年収より高いの」
ゆっくり、はっきりと。
妻「お前が一年間、必死に働いても、まだ届かない金額よ」
佐川の喉が震える。
奥様はさらに顔を近づけた。
妻「お前の汚れた手が触れたら、価値が下がるの。理解できる?」
佐川は必死に頷く。
佐川「は、はい……奥様」
夫が後ろから静かに口を開いた。
夫「佐川」
その一言だけで、空気が凍る。
夫「お前は“物”だ。物が、所有者の所有物に触れるな」
佐川の胸が締めつけられる。
かつては――
自分も、こうして使用人に言っていた側だった。
だが今は違う。
妻はバッグをわざと佐川の顔の前に近づける。
妻「ほら、よく見なさい」
鎖が揺れ、金具が光る。
妻「お前が一生かかっても持てない物よ」
佐川の視界が滲む。
それでも涙をこぼしてはいけない。
泣けば「床を汚すな」と言われる。
妻は立ち上がり、ヒールで佐川のスカートの裾を軽く踏む。
妻「今日はレストランでね、隣の席の人がこのバッグを褒めてくれたの」
わざと楽しそうに言う。
「“素敵ですね”って。お前が触ったら、その価値も消えるわ」
夫が淡く笑う。
夫「佐川、お前の仕事は何だ?」
震える声で答える。
佐川「奥様を、引き立てることでございます」
夫「違う」
夫の声が落ちる。
夫「妻の“格”を、より際立たせるために、お前は地面にいるんだ」
その言葉に、佐川は完全に頭を下げる。
床に額を打ちつけるように。
佐川「申し訳ございません……!」
妻は冷たく言い放つ。
妻「明日から、他のバッグにも触れないで。持つ価値もないわ」
一瞬、間を置いて。
妻「お前は床を磨いていればいいの。お前が触っていいのは、汚れだけよ」
静寂。
窓の外の夜景だけがきらめいている。
夫は妻の肩に手を回し、優しく囁く。
夫「さあ、疲れただろう。中へ」
その優しさは、佐川には一切向けられない。
二人がリビングへ消えていく。
玄関に残された佐川は、まだ跪いたまま。
さきほど弾かれた手がじんじんと痛む。
だが、それ以上に痛いのは――
かつて、自分が持っていたはずの“立場”。
バッグよりも重い現実が、胸にのしかかる。
それでも、立ち上がる。
雑巾を取りに行く。
この家の女王様のヒールの跡を、丁寧に、丁寧に拭き取るために。




