過去の傲慢②
佐川は、床に膝をついたまま語り続ける。
窓の外はすっかり夜景に変わり、無数の灯りが星のように瞬いている。
妻は静かにワイングラスを傾けながら、その告白を楽しむように聞いていた。
佐川「……夜会のときは、侍女を常に半歩後ろに立たせておりました」
妻「半歩?」
佐川「はい。私より前に出ることは許しませんでした」
妻は小さく笑う。
妻「徹底してるのね」
佐川「……視線を上げることも禁じておりました」
妻「どうして?」
佐川「私より目線が上がるのが、不快だったからです」
妻の口元がゆるむ。
妻「本当に傲慢だったのね」
佐川は答えない。
妻は足を組み替え、そのヒールがわずかに床を鳴らす。
妻「侍女は、あなたをどう見ていたと思う?」
佐川の手が止まる。
佐川「……わかりません」
妻「わからないの?」
佐川「……考えたことも、ありませんでした」
妻は楽しそうに目を細める。
妻「そうでしょうね。お前は“見下ろす側”だったのだから」
佐川の喉がわずかに鳴る。
妻は続ける。
妻「冬に庭に立たせたとき、その侍女は何か言ったの?」
佐川の声がかすれる。
佐川「……“申し訳ございません、奥様”と……」
妻「震えていた?」
佐川「……はい」
妻「それを見て?」
長い沈黙。
佐川「……満足いたしました」
妻はゆっくりと立ち上がる。
ヒールの音が、床に響く。
そして、佐川の背後に回る。
妻「今、あなたが震えているのは、寒さ?」
佐川「……いいえ」
妻「恐怖?」
佐川はわずかに息を呑む。
佐川「……過去を語ることの、恥です」
妻はその灰色の髪をひと房、指で持ち上げる。
妻「恥?」
佐川「……はい」
妻「お前は、恥を知るようになったのね」
静かな声。
妻「昔のお前は、絶対に認めなかったでしょう」
佐川は目を閉じる。
佐川「……はい」
妻は再び正面に回り、ソファーに腰を下ろす。
妻「その侍女は、最後まであなたに仕えたの?」
佐川の表情がわずかに曇る。
佐川「……私が没落したとき、彼女は……残ると言いました」
妻は眉を上げる。
妻「残ると?」
佐川「……“どんな立場でも、お側に”と」
妻「それで?」
佐川「……私は、断りました」
妻「なぜ?」
佐川「……自分が落ちる姿を、見られたくなかったからです」
妻はしばらく黙る。
妻「優しさじゃないのね」
佐川「……保身です」
静かな肯定。
妻は深く息を吐く。
妻「お前は、最後まで自分のことしか考えていなかった」
佐川は、ゆっくりと頷く。
佐川「……はい」
妻はヒールの先で、佐川の顎を軽く上げる。
妻「ねえ、佐川」
佐川「……はい」
妻「もし、あの侍女が今のあなたを見たら、どう思うかしら」
佐川の瞳が揺れる。
佐川「……わかりません」
妻「笑うと思う?」
佐川「……」
妻「それとも、泣く?」
佐川の声はほとんど囁きになる。
佐川「……きっと、泣くでしょう」
妻は少しだけ首を傾げる。
妻「お前が可哀想だから?」
佐川はゆっくりと首を振る。
佐川「……私が、ようやく、自分と同じ場所に立ったからです」
その言葉に、妻の表情が一瞬だけ変わる。
妻「同じ場所?」
佐川「……足元です」
妻はしばらく佐川を見つめる。
そして、淡々と言う。
妻「でもね、佐川」
ヒールが再び床を鳴らす。
妻「お前はまだ、完全には同じじゃないわ」
佐川「……と、申しますと」
妻「お前は“語る側”になっている」
佐川は息を止める。
妻「自分の罪を、自分の言葉で整理している」
妻は冷たく微笑む。
妻「本当に同じになるにはね、語ることも許されないの」
沈黙。
妻「お前の侍女は、お前に問いかけた?」
佐川「……いいえ」
妻「反論した?」
佐川「……いいえ」
妻「自分の気持ちを語った?」
佐川「……いいえ」
妻はゆっくりと立ち上がる。
妻「だったら、お前も」
その声は静かで、鋭い。
妻「これ以上は語らなくていいわ」
佐川の手から、雑巾が落ちる。
妻は背を向け、窓の外の夜景を見つめる。
妻「今日から、お前は語らない」
佐川「……はい」
妻「聞かれたことだけ、短く答える」
佐川「……はい」
妻「感情も、評価も、後悔も、いらない」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……かしこまりました」
妻は振り返らないまま言う。
妻「お前が昔、奪っていたものを、今度はお前が失うの」
静かな夜。
高層階のリビングに、重たい沈黙が落ちる。
佐川は、ただ床を拭き続ける。
かつて半歩後ろに立たせた侍女の姿を思い出しながら。
だが、その記憶すら、今は口にすることを許されないまま。




