過去の傲慢①
高層階のリビング。
大きな窓から夕暮れの光が差し込み、磨き上げられた大理石の床に橙色の影を落としている。
ソファーに優雅に腰掛ける奥様。
深いボルドーのドレス、艶やかな黒いヒール、首元には大粒のパール。
その足元。
茶色の毛玉だらけのカーディガンを着た佐川が、膝をつき、黙々と床を拭いている。
妻は足を組み替え、静かに口を開いた。
妻「ねえ、佐川」
佐川「……はい、奥様」
妻「あなた、昔は“大富豪の奥様”だったのよね?」
拭く手が、一瞬だけ止まる。
佐川「……はい」
妻は微笑む。だが目は冷たい。
妻「何人いたの? 使用人」
佐川は視線を床に落としたまま答える。
佐川「……家政婦が五人、執事が一人、運転手が一人……」
妻「七人?」
佐川「……はい」
妻はくすりと笑う。
妻「ずいぶん贅沢ね」
佐川の喉がわずかに動く。
妻はさらに身を乗り出す。
妻「その中に、“常に側にいる女”もいたんでしょう?」
佐川「……はい。侍女のような役割の家政婦が……一人」
妻「へえ。年上だったの?」
佐川「……はい」
妻はヒールの先で佐川の雑巾を押さえつけた。
妻「どんなふうに使っていたの?」
沈黙。
妻の声が低くなる。
妻「正直に答えなさい。お前がどうやって人を使っていたのか、聞きたいの」
佐川は目を閉じる。
佐川「……朝は、私が起きる前に部屋を整えさせました。身支度も……靴も、髪も……」
妻「自分では何も?」
佐川「……指一本、動かしませんでした」
妻の唇が歪む。
妻「ふうん」
佐川の声は淡々としているが、わずかに震えている。
佐川「少しでも遅れると……叱責しました。侍女が……お茶をぬるく出した時は……」
妻「何をしたの?」
佐川「……庭に立たせました。冬でした」
妻の目が細くなる。
妻「年上の女を?」
佐川「……はい」
妻「あなたより、ずっと年上の使用人を、寒空に立たせたの?」
佐川「……はい」
妻は笑った。
妻「傲慢ね」
佐川は何も言わない。
妻はさらに問い詰める。
妻「執事は? 運転手は?」
佐川「執事には……客の前で恥をかかせました。言い間違いを……わざと指摘して」
妻「わざと?」
佐川「……はい。権威を示すために」
妻は拍手するように軽く手を叩いた。
妻「素晴らしいわ。完璧な“元奥様”ね」
佐川の指先が白くなるほど床を押さえる。
妻「侍女はあなたをどう呼んでいたの?」
佐川「……“奥様”と」
妻「敬語で?」
佐川「……もちろんです」
妻はヒールをゆっくりと佐川の手の甲に乗せる。
妻「今は?」
佐川「……奥様、とお呼びしております」
妻「誰を?」
佐川「……あなた様を」
妻は足に少しだけ体重をかける。
妻「痛い?」
佐川「……問題ございません」
妻「昔は、痛がる使用人を見て、どう思っていたの?」
長い沈黙。
佐川「……当然だと」
妻はふっと息を吐く。
妻「当然、ね」
部屋に静寂が落ちる。
妻はゆっくり立ち上がり、佐川の顎に指をかけ、顔を上げさせる。
妻「お前は、あの侍女を、どう思っていたの?」
佐川「……道具のように」
奥様の目が光る。
妻「今の自分は?」
佐川は妻の視線から逃げない。
佐川「……同じです」
妻は一瞬だけ驚いたように眉を動かす。
妻「同じ?」
佐川「……私は、今、奥様の道具でございます」
妻は低く笑う。
妻「いい答えね。でもね、違うわ」
ヒールの先で佐川の顎を軽く押す。
妻「あなたは道具ですらないの。道具は大切にするもの」
その言葉が、静かに突き刺さる。
妻「あなたは、“過去を思い出すための見本”よ」
佐川の瞳が揺れる。
妻はソファーに戻り、再び足を組む。
妻「お前が昔、年上の侍女を立たせたように、私はお前を跪かせる。お前が冷たい目で見下ろしたように、私は見下ろす」
静かな声。
妻「どう? 自分の過去を、足元から見上げる気分は」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……身に余る光栄でございます」
妻は満足そうに微笑む。
妻「もっと聞かせて。あなたがどれだけ傲慢だったのか」
佐川は、ゆっくりと語り始める。
夜会で使用人を立たせたこと。
客の前で涙を流させたこと。
謝罪を何度も言わせたこと。
語るたびに、妻の表情は楽しげに、冷ややかに変わっていく。
やがて妻は言う。
妻「因果応報って言葉、知っている?」
佐川「……はい」
妻「それを、今、体現しているのよ」
窓の外の夜景が輝き始める。
高層階の静かなリビング。
床に跪く元大富豪の奥様。
その過去を、冷たい笑みで聞き出す現・奥様。
ヒールの音が静かに響く。
妻「さあ、佐川。続きを話しなさい。お前が、どれほど人を見下していたのか」
佐川は、再び雑巾を握りしめる。
そして、かつて自分が立っていた“上”の世界を、今は床から見上げながら、語り続けた。




