表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
52/82

過去の傲慢①

高層階のリビング。


大きな窓から夕暮れの光が差し込み、磨き上げられた大理石の床に橙色の影を落としている。


ソファーに優雅に腰掛ける奥様。

深いボルドーのドレス、艶やかな黒いヒール、首元には大粒のパール。


その足元。


茶色の毛玉だらけのカーディガンを着た佐川が、膝をつき、黙々と床を拭いている。


妻は足を組み替え、静かに口を開いた。


妻「ねえ、佐川」


佐川「……はい、奥様」


妻「あなた、昔は“大富豪の奥様”だったのよね?」


拭く手が、一瞬だけ止まる。


佐川「……はい」


妻は微笑む。だが目は冷たい。


妻「何人いたの? 使用人」


佐川は視線を床に落としたまま答える。


佐川「……家政婦が五人、執事が一人、運転手が一人……」


妻「七人?」


佐川「……はい」


妻はくすりと笑う。


妻「ずいぶん贅沢ね」


佐川の喉がわずかに動く。


妻はさらに身を乗り出す。


妻「その中に、“常に側にいる女”もいたんでしょう?」


佐川「……はい。侍女のような役割の家政婦が……一人」


妻「へえ。年上だったの?」


佐川「……はい」


妻はヒールの先で佐川の雑巾を押さえつけた。


妻「どんなふうに使っていたの?」


沈黙。


妻の声が低くなる。


妻「正直に答えなさい。お前がどうやって人を使っていたのか、聞きたいの」


佐川は目を閉じる。


佐川「……朝は、私が起きる前に部屋を整えさせました。身支度も……靴も、髪も……」


妻「自分では何も?」


佐川「……指一本、動かしませんでした」


妻の唇が歪む。


妻「ふうん」


佐川の声は淡々としているが、わずかに震えている。


佐川「少しでも遅れると……叱責しました。侍女が……お茶をぬるく出した時は……」


妻「何をしたの?」


佐川「……庭に立たせました。冬でした」


妻の目が細くなる。


妻「年上の女を?」


佐川「……はい」


妻「あなたより、ずっと年上の使用人を、寒空に立たせたの?」


佐川「……はい」


妻は笑った。


妻「傲慢ね」


佐川は何も言わない。


妻はさらに問い詰める。


妻「執事は? 運転手は?」


佐川「執事には……客の前で恥をかかせました。言い間違いを……わざと指摘して」


妻「わざと?」


佐川「……はい。権威を示すために」


妻は拍手するように軽く手を叩いた。


妻「素晴らしいわ。完璧な“元奥様”ね」


佐川の指先が白くなるほど床を押さえる。


妻「侍女はあなたをどう呼んでいたの?」


佐川「……“奥様”と」


妻「敬語で?」


佐川「……もちろんです」


妻はヒールをゆっくりと佐川の手の甲に乗せる。


妻「今は?」


佐川「……奥様、とお呼びしております」


妻「誰を?」


佐川「……あなた様を」


妻は足に少しだけ体重をかける。


妻「痛い?」


佐川「……問題ございません」


妻「昔は、痛がる使用人を見て、どう思っていたの?」


長い沈黙。


佐川「……当然だと」


妻はふっと息を吐く。


妻「当然、ね」


部屋に静寂が落ちる。


妻はゆっくり立ち上がり、佐川の顎に指をかけ、顔を上げさせる。


妻「お前は、あの侍女を、どう思っていたの?」


佐川「……道具のように」


奥様の目が光る。


妻「今の自分は?」


佐川は妻の視線から逃げない。


佐川「……同じです」


妻は一瞬だけ驚いたように眉を動かす。


妻「同じ?」


佐川「……私は、今、奥様の道具でございます」


妻は低く笑う。


妻「いい答えね。でもね、違うわ」


ヒールの先で佐川の顎を軽く押す。


妻「あなたは道具ですらないの。道具は大切にするもの」


その言葉が、静かに突き刺さる。


妻「あなたは、“過去を思い出すための見本”よ」


佐川の瞳が揺れる。


妻はソファーに戻り、再び足を組む。


妻「お前が昔、年上の侍女を立たせたように、私はお前を跪かせる。お前が冷たい目で見下ろしたように、私は見下ろす」


静かな声。


妻「どう? 自分の過去を、足元から見上げる気分は」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「……身に余る光栄でございます」


妻は満足そうに微笑む。


妻「もっと聞かせて。あなたがどれだけ傲慢だったのか」


佐川は、ゆっくりと語り始める。


夜会で使用人を立たせたこと。

客の前で涙を流させたこと。

謝罪を何度も言わせたこと。


語るたびに、妻の表情は楽しげに、冷ややかに変わっていく。


やがて妻は言う。


妻「因果応報って言葉、知っている?」


佐川「……はい」


妻「それを、今、体現しているのよ」


窓の外の夜景が輝き始める。


高層階の静かなリビング。


床に跪く元大富豪の奥様。


その過去を、冷たい笑みで聞き出す現・奥様。


ヒールの音が静かに響く。


妻「さあ、佐川。続きを話しなさい。お前が、どれほど人を見下していたのか」


佐川は、再び雑巾を握りしめる。


そして、かつて自分が立っていた“上”の世界を、今は床から見上げながら、語り続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ