表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
51/82

冷たい大理石に映る夜

夜のリビングは、タワマン高層階特有の静寂に包まれていた。

大きな窓の向こうには、都会の灯りが冷たく瞬いている。


佐川は床に膝をつき、濡れた大理石を雑巾で押さえつけていた。

元夫の話をして以降、妻の指導は厳しくなった。


茶色のカーディガンは今日も毛玉だらけで、袖口は擦り切れ、ところどころ白く色が抜けている。背中に汗が滲み、灰色のまとめ髪から汗が一筋こぼれ落ちた。


その時だった。


寝室へ向かう途中の妻のが、足を止める。


妻「……邪魔」


低い声。


次の瞬間、無造作に振り上げられた素足が、金属のバケツを蹴り飛ばした。


ガンッ、と硬い音が響き、水が大きく弧を描いて床に広がる。

バケツは転がり、氷のような水が佐川の膝元へ流れ込んだ。


佐川「っ……!」


佐川は反射的に身を引くが、間に合わない。

冷水がスカートを濡らし、膝に染み込む。


妻は腕を組んだまま、冷ややかに見下ろしていた。


妻「床を拭くのは結構。でもね、動線を塞ぐなと言っているでしょう?」


佐川「……申し訳ございません、奥様」


佐川はすぐに頭を下げる。額が濡れた床につく。

水と汗と屈辱の匂いが混ざる。


妻はため息をついた。


妻「本当に使えないわね、先に休むわ」


そのまま踵を返し、寝室の方へ歩き出す。


佐川は必死に雑巾を握り直す。

増えた水を拭き取らなければならない。叱責の種をこれ以上増やしてはならない。


妻は数歩進んだところで止まった。


振り返る。


妻「……」


沈黙。


佐川は顔を上げない。必死に水を拭いている。


奥様の眉がわずかに動く。


妻「佐川」


低く、呼び捨て。


佐川の手が止まる。


佐川「はい……奥様」


妻「何か、言うことは?」


その声には、温度がなかった。


佐川の喉が詰まる。


佐川「……」


一瞬の沈黙。


妻の目が細くなる。


妻「まさか」


一歩、近づく。

濡れた床を素足で踏みしめる。


妻「私が寝ると言ったのに」


さらに一歩。


妻「挨拶もないの?」


佐川ははっとして顔を上げた。


佐川「……申し訳ございません、奥様。おやすみなさいませ」


声は震えていた。


妻はしゃがみ込む。

視線を合わせるためではない。見下ろすために。


妻「遅いのよ」


佐川の顎を、冷たい指先で軽く持ち上げる。


妻「挨拶は“言われてから”するものじゃないでしょう?」


佐川の視線は逃げ場を失う。


妻「お前は、何のためにここにいるの?」


佐川「……奥様と旦那様にお仕えするためでございます」


妻「なら、寝る前の挨拶くらい、考えなくても出るはずよね?」


指先が少しだけ強くなる。


佐川「……はい」


妻「はい、じゃないわ」


奥様の目が静かに光る。


妻「“申し訳ございませんでした、奥様。次からは必ず自らお声がけいたします”」


言わされる言葉。


佐川は、ゆっくりと繰り返す。


佐川「……申し訳ございませんでした、奥様。次からは必ず、自らお声がけいたします」


妻は満足げに微笑む。


だが、その微笑みは優しさではない。


妻「それでいいの。躾は大事でしょう?」


立ち上がる。


妻「水、全部拭いておきなさい。跡が残ったら、明日やり直しだから」


佐川「……かしこまりました」


奥様は寝室へ向かう。

ドアの前で、再び止まる。


振り返らないまま、言う。


妻「佐川」


佐川「はい」


妻「おやすみなさい、は?」


佐川はすぐに両手を床につけ、深く頭を下げる。


佐川「おやすみなさいませ、奥様」


数秒の沈黙。


妻「……ふん」


ドアが閉まる音。


静寂が戻る。


佐川はしばらく動けなかった。


濡れた床に、両膝をついたまま。

雑巾を握り締め、震える指。


——私は、何のためにここにいるの?


さきほどの問いが、頭の中で反芻される。


元はこの床よりも広い屋敷に住み、命じる側だった。

今は、寝る前の挨拶一つで叱責される立場。


大理石に映る自分の姿は、歪んでいる。


茶色のカーディガンは、水を吸ってさらに重い。

まるで、過去そのものが肩にのしかかっているかのように。


佐川はゆっくりと雑巾を動かす。


冷たい水を、何度も何度も拭き取る。


消せないものを、消すかのように。


寝室の奥から、微かに妻の声が聞こえた。

柔らかい、甘い声。


夫に向ける声。


それを聞いた瞬間、佐川は一瞬だけ目を閉じる。


だが、すぐに開いた。


雑巾を強く押しつける。


ここでは、涙を落とすことさえ許されない。


ただ、静かに床を磨き続ける。


それが、今の佐川の役目だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ