冷たい大理石に映る夜
夜のリビングは、タワマン高層階特有の静寂に包まれていた。
大きな窓の向こうには、都会の灯りが冷たく瞬いている。
佐川は床に膝をつき、濡れた大理石を雑巾で押さえつけていた。
元夫の話をして以降、妻の指導は厳しくなった。
茶色のカーディガンは今日も毛玉だらけで、袖口は擦り切れ、ところどころ白く色が抜けている。背中に汗が滲み、灰色のまとめ髪から汗が一筋こぼれ落ちた。
その時だった。
寝室へ向かう途中の妻のが、足を止める。
妻「……邪魔」
低い声。
次の瞬間、無造作に振り上げられた素足が、金属のバケツを蹴り飛ばした。
ガンッ、と硬い音が響き、水が大きく弧を描いて床に広がる。
バケツは転がり、氷のような水が佐川の膝元へ流れ込んだ。
佐川「っ……!」
佐川は反射的に身を引くが、間に合わない。
冷水がスカートを濡らし、膝に染み込む。
妻は腕を組んだまま、冷ややかに見下ろしていた。
妻「床を拭くのは結構。でもね、動線を塞ぐなと言っているでしょう?」
佐川「……申し訳ございません、奥様」
佐川はすぐに頭を下げる。額が濡れた床につく。
水と汗と屈辱の匂いが混ざる。
妻はため息をついた。
妻「本当に使えないわね、先に休むわ」
そのまま踵を返し、寝室の方へ歩き出す。
佐川は必死に雑巾を握り直す。
増えた水を拭き取らなければならない。叱責の種をこれ以上増やしてはならない。
妻は数歩進んだところで止まった。
振り返る。
妻「……」
沈黙。
佐川は顔を上げない。必死に水を拭いている。
奥様の眉がわずかに動く。
妻「佐川」
低く、呼び捨て。
佐川の手が止まる。
佐川「はい……奥様」
妻「何か、言うことは?」
その声には、温度がなかった。
佐川の喉が詰まる。
佐川「……」
一瞬の沈黙。
妻の目が細くなる。
妻「まさか」
一歩、近づく。
濡れた床を素足で踏みしめる。
妻「私が寝ると言ったのに」
さらに一歩。
妻「挨拶もないの?」
佐川ははっとして顔を上げた。
佐川「……申し訳ございません、奥様。おやすみなさいませ」
声は震えていた。
妻はしゃがみ込む。
視線を合わせるためではない。見下ろすために。
妻「遅いのよ」
佐川の顎を、冷たい指先で軽く持ち上げる。
妻「挨拶は“言われてから”するものじゃないでしょう?」
佐川の視線は逃げ場を失う。
妻「お前は、何のためにここにいるの?」
佐川「……奥様と旦那様にお仕えするためでございます」
妻「なら、寝る前の挨拶くらい、考えなくても出るはずよね?」
指先が少しだけ強くなる。
佐川「……はい」
妻「はい、じゃないわ」
奥様の目が静かに光る。
妻「“申し訳ございませんでした、奥様。次からは必ず自らお声がけいたします”」
言わされる言葉。
佐川は、ゆっくりと繰り返す。
佐川「……申し訳ございませんでした、奥様。次からは必ず、自らお声がけいたします」
妻は満足げに微笑む。
だが、その微笑みは優しさではない。
妻「それでいいの。躾は大事でしょう?」
立ち上がる。
妻「水、全部拭いておきなさい。跡が残ったら、明日やり直しだから」
佐川「……かしこまりました」
奥様は寝室へ向かう。
ドアの前で、再び止まる。
振り返らないまま、言う。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「おやすみなさい、は?」
佐川はすぐに両手を床につけ、深く頭を下げる。
佐川「おやすみなさいませ、奥様」
数秒の沈黙。
妻「……ふん」
ドアが閉まる音。
静寂が戻る。
佐川はしばらく動けなかった。
濡れた床に、両膝をついたまま。
雑巾を握り締め、震える指。
——私は、何のためにここにいるの?
さきほどの問いが、頭の中で反芻される。
元はこの床よりも広い屋敷に住み、命じる側だった。
今は、寝る前の挨拶一つで叱責される立場。
大理石に映る自分の姿は、歪んでいる。
茶色のカーディガンは、水を吸ってさらに重い。
まるで、過去そのものが肩にのしかかっているかのように。
佐川はゆっくりと雑巾を動かす。
冷たい水を、何度も何度も拭き取る。
消せないものを、消すかのように。
寝室の奥から、微かに妻の声が聞こえた。
柔らかい、甘い声。
夫に向ける声。
それを聞いた瞬間、佐川は一瞬だけ目を閉じる。
だが、すぐに開いた。
雑巾を強く押しつける。
ここでは、涙を落とすことさえ許されない。
ただ、静かに床を磨き続ける。
それが、今の佐川の役目だった。




