終わりを口にした罪③ 〜佐川視点〜
あれから、何も変わらなかった。
朝五時前。
まだ外が薄暗い時間に目を覚まし、冷たい水で顔を洗う。
制服代わりの茶色いカーディガンを着ている。
毛玉。
ほつれ。
擦り切れた袖口。
何度手洗いしても完全には落ちないくすみ。
「……今日も、これ。」
小さく呟き、ボタンを一つずつ留めていく。
一番上まで、きちんと。
奥様の命令だから。
黒いスカートを整え、鏡を見る。
そこに映るのは、かつて奥様と呼ばれていた女ではない。
ただの使用人。
――いや。
奥様の憎しみを受け止める存在。
「佐川。」
低い声が背後から落ちる。
「はい、奥様。」
振り返ると、洗練された黒のニットにデニム姿の奥様。
高層マンションの朝日を背に、すらりと立っている。
「紅茶がぬるい。」
カップを軽く置く音。
「申し訳ございません。すぐにお淹れ直しいたします。」
「同じことを何度言わせるの、役立たず」
静かな叱責。
声は荒げない。
だが、逃げ場はない。
「すみません。」
頭を下げる。
それが日常。
昼は掃除、洗濯、買い出し。
エレベーターに乗り、タワーマンションのエントランスを抜ける。
今日も同じカーディガン。
通行人の視線が少しだけ刺さる。
高層ビルに囲まれた通りを歩く奥様の後ろ、半歩下がって歩く自分。
奥様のバッグは高級ブランド。
自分の手には買い物袋。
風が吹く。
カーディガンの袖口が揺れる。
――雑巾のようだ。
あの日、言われた言葉。
「とても似合っているわ。」
微笑みながら。
忘れられない。
忘れないようにしているのかもしれない。
家に戻れば、また叱責。
「佐川、窓の縁が曇っている。」
「佐川、床の拭き跡が甘い。」
「佐川、返事はもっとはっきり。」
一つ一つは些細。
だが、積み重なれば重石になる。
夜遅く、最後の片付けを終え、キッチンに一人立つ。
指先は荒れ、肩は重い。
それでも明日もまた同じカーディガンを着る。
変わらない生活。
借金はまだ遠い。
優しさも遠い。
それでも――
出て行く勇気はない。
ここにいることが、罰であり、居場所でもある。
窓の外に広がる夜景を見つめる。
高層階の光が瞬く。
かつてはあの光の中にいた。
今は、その光を支える影。
カーディガンの袖をぎゅっと握る。
「……終わりは、まだ先。」
小さく呟く。
朝が来れば、また五時に起きる。
ボタンを一番上まで留める。
奥様の足音に耳を澄ませる。
叱責される日々。
変わらない生活。
それでも私は、ここで息をしている。
雑巾のようなカーディガンを羽織ったまま。




