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終わらぬ転落  作者: ありり
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初めての雑巾掛け

夕刻のリビング。


高層階から見下ろす街の灯りが、ゆっくりと瞬き始めている。


佐川は、再び大理石の床に両膝をついた。


背筋を伸ばし、深く頭を下げる。


佐川「……旦那様。本日よりお仕えする機会をお与えいただき、誠にありがとうございます。身命を賭して務めさせていただきます」


沈黙。


ソファに腰掛ける夫は、脚を組んだまま視線を落とす。


夫「顔を上げろ」


低く、抑えた声。


佐川がゆっくりと顔を上げた瞬間——


革靴のつま先が顎に触れた。


佐川「……っ」


冷たい革の感触。


そのまま、ゆっくりと持ち上げられる。


夫「礼を言う立場か?」


佐川「……はい」


夫「違う」


つま先がわずかに押し込まれる。


夫「お前は“雇われた”のではない。“使われる”側だ」


佐川は呼吸を整え、答える。


佐川「……私は旦那様と奥様の命に従う身でございます」


夫はしばらく佐川を見下ろし、やがて足を下ろした。


妻が静かに口を開く。


妻「あなた」


夫の靴を見つめる。


妻「汚れているわ」


夫は視線を落とす。


夫「そうか」


妻は淡々と言い放つ。


妻「汚いものに触れられたからでしょう」


空気が冷える。


佐川の指先が、わずかに震える。


妻「エプロンを外しなさい」


佐川は即座に従う。


妻「そのエプロンで、旦那様の靴を磨きなさい」


佐川「……承知いたしました」


床に膝をついたまま、エプロンの布で革靴を拭く。


革と布が擦れる音が、静かに響く。


妻の声が続く。


妻「あなたに触れたせいで旦那様の靴が汚れたのだから、あなたが綺麗にするのは当然よ」


佐川「……はい」


夫は当然のように足を預ける。


夫「明日からの話だ」


低い声。


夫「朝は五時から掃除を始めろ」


佐川「……はい」


俺「俺たちが起きる前に、家中を整えておけ」


佐川「承知いたしました」


妻が重ねる。


妻「夜は、私たちが“もういい”と言うまで働きなさい」


佐川「……はい」


妻「疲れた、という言葉は許可しない」


佐川「……はい」


夫のつま先が、再び顎を押す。


夫「理解しているな?」


佐川「……私はお二人に従う存在でございます」


夫「そうか」


妻が立ち上がる。


妻「では、早速始めなさい」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「……承知いたしました」


妻「玄関の雑巾掛けから」


——玄関。


佐川は、豪華な玄関ホールに移動する。


バケツに水を張る。


雑巾を手に取る。


ふと、動きが止まる。


雑巾を、絞る。


佐川にとって、それは初めての動作だった。


これまで、誰かがやってきた。


掃除係が。

使用人が。


自分の手で、雑巾を強く握り、水を切る。


力の入れ方がわからず、水がぽたりと床に落ちる。


妻の声が背後から飛ぶ。


妻「何をしているの?」


佐川「……申し訳ございません」


妻「そんなこともできないの?」


佐川「……ただいま、習得いたします」


再び握る。


水が滴り落ちる。


指先が赤くなる。


旦那様の声が遠くから響く。


夫「ふん、時間がかかりそうだな」


佐川は、何も言わずに床に膝をつく。


大理石に雑巾を押し当て、ゆっくりと擦る。


かつてはヒールで踏みしめた似たような床。


今は、両手で磨く側。


妻が静かに告げる。


妻「それがあなたの仕事」


佐川「……はい」


夜が深まる。


雑巾を絞る音が、玄関に静かに響いていた。

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