終わりを口にした罪②
夜。
屋敷の廊下は静まり返り、足音だけがやけに響いた。
妻「入りなさい。」
妻の私室から、低く澄んだ声。
佐川「……失礼いたします。」
佐川はドアを開け、静かに中へ入る。
擦り切れた茶色のカーディガン。黒いスカート。髪はきっちりとまとめているが、その横顔には昼の緊張が残っている。
奥様はソファに腰掛けていた。
深い赤のドレス。真珠のネックレス。
ランプの灯りが横顔を照らし、その表情は冷たい。
テーブルには紅茶が用意されているが、佐川の分はない。
妻「そこに立ちなさい。」
佐川はソファの前に直立する。
沈黙。
妻はゆっくりと口を開いた。
妻「昼間、お前は“終わり”を求めたわね。」
佐川「……はい。」
妻「終わりを語る前に、お前に思い出してもらうことがある。」
視線が鋭くなる。
妻「お前の元夫のこと。」
佐川の喉が鳴る。
佐川「……はい。」
妻「二億円。」
淡々と。
妻「旦那様から借りた金額。名義はお前。」
佐川「……元凶は元夫です。」
妻「ええ、そうね。」
妻は頷く。
妻「見栄と虚栄心に溺れ、失敗し、最後はお前の名を差し出した。」
静かな怒り。
妻「でもね、私が許せないのは、それだけじゃない。」
佐川の胸がざわつく。
奥様は立ち上がる。ゆっくりと近づいてくる。
妻「私がまだ旦那様の使用人だった頃。」
その声は低い。
妻「お前の元夫がこの家を訪ねてきたこと、知ってる?」
佐川「……商談のために、と聞いておりました。」
妻「商談。」
奥様は冷笑する。
妻「最初はそうだった。」
一歩、さらに近づく。
妻「でも、旦那様が席を外したとき――」
言葉が止まる。
佐川は無意識に息を呑む。
妻「あの男は、私に近づいた。」
静かに告げる。
妻「使用人の私に。」
佐川の目が見開かれる。
佐川「……」
妻「“旦那様に口添えしてくれたら、礼はする”と。」
奥様の声は震えていない。だが、怒りは明確だった。
妻「礼、とは何か。」
視線が刺さる。
妻「私に、関係を迫ったのよ。」
空気が凍りつく。
佐川の膝がわずかに揺れる。
佐川「……そんな……」
妻「信じられない?」
妻の瞳が光る。
妻「私は使用人だった。逆らえば職を失うかもしれない立場。」
拳がわずかに握られる。
妻「お前の元夫は、それを分かった上で言った。」
沈黙。
妻「私は拒んだ。」
低い声。
妻「当然よ。」
佐川「……」
妻「でもね。」
奥様の目がゆっくりと佐川に向けられる。
妻「私はその日、初めて思ったの。」
一拍。
妻「この家の“奥様”は、何も知らないのだろうか、と。」
佐川の呼吸が荒くなる。
佐川「私は……本当に……」
妻「知らなかった?」
遮るように言う。
妻「でも、お前はあの男の妻だった。」
その言葉が重く落ちる。
妻「お前はあの家の主だった。」
さらに近づく。
妻「お前の元夫が、お前の権威を背負って、私を値踏みした。」
佐川の視界が揺れる。
妻「金のために、私を道具にしようとした。」
奥様の声が低くなる。
妻「二億円も許せない。」
指を一本立てる。
妻「でも、あの日の侮辱は、もっと許せない。」
沈黙。
妻「私は旦那様を守りたいと思っていた。」
わずかに揺れる声。
妻「でも、使用人だった私は、ただ耐えるしかなかった。」
視線が鋭くなる。
妻「お前はその上に立っていた。」
佐川の目から涙が零れる。
佐川「私は……加害者ではありません……」
妻「被害者でもない。」
即答。
妻「お前は“側”にいた。」
冷たい断定。
妻「元夫を止められなかった側。気づかなかった側。守らなかった側。」
佐川の心が締めつけられる。
妻はゆっくりとソファへ戻る。
妻「お前の元夫は憎んでいる。」
はっきりと言う。
妻「二億円も、あの日のことも。」
一拍。
妻「でも、お前も憎しみの対象よ。」
佐川は震える声で尋ねる。
佐川「……それでも、私はここで働くことを許されているのですか。」
奥様は静かに紅茶を口にする。
妻「許しているのではない。」
淡々と。
妻「償わせているの。」
視線が上がる。
妻「お前は借金を背負っている。」
佐川「……はい。」
妻「そして過去も。」
沈黙。
妻「私は忘れない。」
静かな宣告。
妻「お前を見るたび、あの日を思い出す。」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……申し訳ございません。」
妻の声は冷たいまま。
妻「謝罪で消えるなら、最初から憎まない。」
長い沈黙。
妻「終わりを望むなら、理解しなさい。」
ゆっくりと告げる。
妻「お前は被害者の顔をしているけれど、私にとっては、過去の象徴なの。」
その言葉が胸を貫く。
妻「下がりなさい。」
佐川は震えながら一礼する。
佐川「……失礼いたします。」
ドアを閉めた瞬間、廊下の空気がやけに冷たい。
二億円の重み。
元夫の罪。
そして消えない過去。
夜は深い。
だが、それ以上に深いのは――
......奥様の憎しみだった。




