終わりを口にした罪①
昼下がりのリビングは、窓から差し込む冬の光で白く照らされていた。
その中央で、佐川は床に膝をついていた。
茶色のカーディガンは相変わらず毛玉だらけで、袖口は擦り切れ、ところどころ糸がほつれている。黒いスカートの裾はきちんと揃えられ、背筋は伸ばされているが、視線だけがわずかに揺れていた。
目の前にはこの家の女王様。
濃いボルドーのワンピースに真珠のネックレス。黒髪をきっちりと結い上げ、涼やかな目が佐川を見下ろしている。
妻「……もう一度言ってみなさい、佐川。」
静かな声だった。だが、その静けさがかえって冷たい。
佐川は唇を噛みしめた。
佐川「……申し訳ございません。ですが、その命令は、あまりに理不尽かと……」
空気が凍りつく。
妻は一歩近づき、ヒールの先が佐川の指先すれすれで止まる。
妻「理不尽?」
低く繰り返す。
妻「お前が“理不尽”という言葉を使うの?」
佐川の喉がひくりと鳴る。
佐川「私はただ、旦那様の書斎の棚を三度も拭き直す必要はないと……すでに掃除は終えておりましたし……」
妻「私が汚れていると言ったの。」
妻の声は鋭い刃のようだった。
妻「私が気に入らないと言ったの。理由はそれで十分でしょう?」
沈黙。
佐川は視線を落とす。しかし、その胸の奥で、抑えていた何かがわずかに揺れた。
佐川「……借金の返済が、終われば」
言ってしまった。
自分でも止められなかった。
佐川「返済が終われば……もう少し、優しくしていただけるのでしょうか……」
その瞬間、妻の目の色が変わった。
静かな怒りが、じわりと広がる。
ゆっくりとしゃがみ込み、佐川と目線を合わせる。
指先が顎に触れた。
ぐっと持ち上げる。
妻「……お前、今、何を期待したの?」
佐川「……っ」
妻「お金を返せば、対等に戻れるとでも思った?」
顎をさらに持ち上げる。首筋が伸び、無理に上を向かされる。
妻「お前は二億円の借金を背負って、この家に来たのよ。旦那様から。お前の“名義”で。」
佐川の瞳が揺れる。
妻「元凶は元夫でしょうけれど……名義はお前。」
佐川「……はい」
妻「私が優しくなるかどうかは、お前の返済額で決まると思ったの?」
薄く笑う。
妻「佐川。お前はもう、“立場”を失っているの。」
その言葉は、何度も聞かされてきたはずなのに、今日は異様に重かった。
妻は指を離す。だが視線は外さない。
妻「優しさを買うつもり?」
佐川は震える声で答える。
佐川「……違います。ただ……」
妻「ただ?」
佐川「……終わりがあるのかと、思ってしまい……」
妻の笑みが消える。
冷たい、完全な無表情。
妻「終わり?」
その声は低く、静かだった。
妻「お前に“終わり”を与える権利があるのは、私と旦那様だけよ。」
佐川の胸が締めつけられる。
妻「借金が終わっても、お前は使用人。私が許すまで、お前はここにいる。」
佐川「……っ」
妻「勘違いしないで。これは慈悲なの。」
立ち上がり、ヒールが床に硬い音を立てる。
妻「路頭に迷わず、雨風をしのげる家がある。仕事もある。食事も与えている。」
振り返る。
妻「それを“理不尽”と言うのなら――」
ゆっくりと視線を落とし、佐川のカーディガンを見つめる。
妻「その格好で外に出ればいいわ。」
佐川の呼吸が止まる。
佐川「……出て行け、と?」
妻「嫌なら、ね。」
淡々とした声。
妻「お前の代わりはいくらでもいる。」
沈黙。
佐川は額が床につくほど深く頭を下げた。
佐川「……申し訳ございません。口答えいたしました。」
妻はしばらく見下ろしていたが、やがて静かに告げる。
妻「……夜。」
佐川がわずかに顔を上げる。
妻「今夜、私の部屋に来なさい。」
佐川「……かしこまりました。」
妻「続きは夜よ」
それだけ言って、妻は背を向けた。
歩き去る足音が遠ざかる。
広いリビングに残されたのは、床に膝をついたままの佐川だけだった。
窓の外では、昼の光が少しずつ傾き始めている。
胸の奥が、冷たい水に沈むように重い。
“夜に来なさい。”
その一言が、何度も頭の中で反響する。
優しさの期待を口にした罪。
終わりを求めた罪。
その代償が、夜に待っている。
佐川はゆっくりと立ち上がる。
擦り切れたカーディガンの袖を整えながら、震えを押し殺した。
まだ昼。
だが、彼女の中では、もう夜が始まっていた。




