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終わらぬ転落  作者: ありり
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妻の私室は、夜の灯りで柔らかく照らされていた。

花柄の壁紙、磨かれた床、整えられた空気。


その中央に、佐川は立たされている。


妻「……相変わらずね」


妻が、佐川を一瞥して言った。


妻「その格好」


視線は、髪の乱れ、擦れた袖口、みすぼらしい茶色のカーディガン


妻「まるで雑巾みたい」


佐川「……」


佐川は答えず、視線を下げた。


妻「返事は?」


夫が、低く言う。


夫「呼ばれて、立っているだけじゃないだろ」


佐川「……申し訳ございません」


声はかすれている。


夫はソファに深く腰掛け、脚を組む。


夫「で」


と、事務的に切り出した。


夫「旅行の件だ」


佐川の肩が、わずかに強張る。


妻は夫の腕に手を添えたまま、淡々と続ける。


妻「私たち、家を空けるわ」


妻「秋の京都だけじゃない」


夫が言葉を継ぐ。


夫「5月も、誕生日で出かける」


佐川「……はい」


夫「問題は」


妻が、ようやく佐川を見る。


妻「その間、お前がこの家にいることなの」


佐川は、息を詰めた。


妻「正直、邪魔よ」


佐川「……」


妻「私たちがいない間に、何をされるか分からない」


妻「その手で、どこを触るかも」


夫は頷く。


夫「留守中に、使用人が家に居座るなんて聞いたことがない」


夫「信用が、ないからだ」


妻は、まるで当然のことを述べるように言った。


妻「だから決めたわ」


夫「旅行中」


夫が続ける。


夫「お前は、この家を出ろ」


佐川の顔色が、はっきりと変わる。


佐川「……で、ですが」


夫「ホテルにでも泊まれ」


妻は冷たく言い放つ。


妻「安いところでいいでしょう」


妻「金がない?」


妻「それは、お前の問題よ」


夫は、少しだけ身を乗り出す。


夫「選択肢は二つだ」


佐川は、喉を鳴らした。


妻「一つ」


妻「旅行中は家を出る。

戻ってきたとき、こちらの気分が良ければ――」


妻が言葉を切る。


妻「使用人として、引き続きまた置いてあげるわ」


夫「もう一つ」


夫が静かに言う。


夫「嫌なら、そのまま消えろ」


夫「どこへ行こうが、知ったことじゃない」


部屋の空気が、凍りつく。


佐川は、耐えきれずに一歩前に出た。


佐川「……お、お願い、いたします」


声が震える。


佐川「どうか……どうか、この家に……」


妻は、ため息をついた。


妻「まだ、立場が分かってないみたいね」


夫が言う。


夫「借金」


その一言で、佐川の背筋が折れる。


夫「お前が、誰から金を借りているか」


夫「誰の情けで、ここに立っているか」


妻は、淡々と述べる。


妻「返済期限」


妻「利息」


妻「保証人がいないこと」


妻「全部、忘れた?」


佐川は、その場に膝をついた。


佐川「……お願い、します」


床に手をつき、頭を下げる。


佐川「出ていけ、と言われても……」


佐川「行く、場所が……」


佐川「借金も……」


声が、涙で歪む。


佐川「このまま、使用人として……」


佐川「……置いてください」


しばらく、沈黙。


夫は妻の横顔を見て、軽く尋ねる。


夫「どうする?」


妻は少し考えるふりをしてから、言った。


妻「……条件付きで」


佐川の顔が、わずかに上がる。


妻「勘違いしないで」


妻は冷たく告げる。


妻「“情け”じゃない」


妻「“管理”よ」


夫が続ける。


夫「旅行中は家を出ろ」


夫「戻ってきたら」


夫「今まで以上に、厳しく使う」


夫「拒否権はない」


妻は微笑まない。


妻「それが嫌なら、今すぐ消えて」


妻「……佐川」


その名前は、呼び捨てだった。


佐川は、再び深く頭を下げる。


佐川「……ありがとうございます」


佐川「ありがとうございます……」


その言葉に、夫は小さく鼻で笑った。


夫「礼を言う立場じゃないだろ」


妻は立ち上がり、言った。


妻「決まりね」


妻「準備は自分でしなさい、日程が決まったら教える」


妻「下がっていいわ」


佐川は、何度も頭を下げた。


佐川「……失礼、いたします」


立ち上がる足は、震えている。


背を向けたまま、部屋を出る。


その背後で、妻が静かに言った。


妻「——逃げ場があると思わないことね」


扉が閉まる。


残された夫婦は、静かに視線を交わした。


夫「……片付いたな」


妻「ええ」


妻は夫の隣に座り直し、体を預ける。


妻「これで、安心して出かけられます」


外では、夜景が何も知らずに輝いている。


その光の届かない場所で、

佐川は“選ばされた”未来を抱えたまま、

静かに立ち尽くしていた。

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