秋は二人で
食後のリビングは、夜の気配に包まれていた。
窓の外では、街の灯りが規則正しく瞬いている。
ソファに並んで座る夫婦の間には、一冊の旅行パンフレット。
ページをめくるたび、紙の乾いた音が静かに響く。
妻「これ、見て」
妻が身を寄せ、夫の肩に自然に頭を預ける。
夫「……ああ、いい写真だな」
妻「ね。夜の景色も綺麗」
夫は腕を回し、妻を引き寄せたままページを眺める。
その少し前で、佐川は膝をついていた。
両手にトレイを持ち、背筋を伸ばしたまま。
コーヒーのカップが二つ。
琥珀色のウイスキーグラスが一つ。
(……落とすな)
昼の失敗が、まだ指先に残っている。
だから、呼吸まで浅くして、動かない。
妻「……実はね」
妻が唐突に言う。
妻「このパンフレット、前から持ってたの」
夫は驚いたように眉を上げる。
夫「いつの間に?」
妻「だいぶ前」
夫「え?」
妻「まだあなたに話す前から」
妻は少し照れたように笑う。
妻「一緒に行きたいなって、思ってたから」
夫は一瞬言葉を失い、それから静かに微笑んだ。
夫「……そういうことか」
妻「勝手?」
夫「いや。嬉しい」
そう言って、妻の髪に頬を寄せる。
佐川の視界には、二人の足元だけが映る。
触れ合う膝。
自然に絡む距離。
(……話す前から)
その言葉が、胸の奥に沈む。
——決まっていたのだ。
佐川が知る前から。
佐川が聞いてしまう前から。
妻「ねえ」
妻がページをめくる。
妻「京都、どう?」
夫「いいな」
妻「歩いて、食べて」
夫「……浴衣も、着たいな」
夫が、少し冗談めかして言う。
妻は驚いたように目を見開き、それからくすっと笑った。
妻「あなたが?」
俺「ああ」
妻「あなたならなんでも似合いそう。かっこいいもの」
夫「ありがとう」
その言葉に、妻は何も言わず、ただ頷いた。
佐川は、そのやり取りを音として聞いている。
意味として理解する前に、耳に入る。
(……一緒に)
(……浴衣)
京都の街。
夜。
並んで歩く二人。
(……私には)
そこに立つ場所は、ない。
妻「佐川」
妻が、ふと思い出したように呼ぶ。
佐川「……はい」
妻「そこに置いて」
テーブルを指す仕草。
視線は、パンフレットから離れない。
佐川は無言で、トレイを差し出す。
カップが置かれ、グラスが置かれる。
誰も、佐川の顔を見ない。
夫はそのままページをめくり、言う。
夫「秋がいいな。」
妻「紅葉も綺麗ね」
夫「じゃあ、その頃に長めに休みをとるよ」
妻「ええ、楽しみ」
二人の声は、完全に重なっている。
佐川は、まだ膝をついたまま。
立っていいとも、下がれとも、言われていない。
(……テーブル)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
物を載せるための存在。
動かず、話さず、そこにあるだけ。
夫婦の会話は、さらに弾む。
宿の話。
食事の話。
「ここ、行ってみたいね」という軽やかな声。
佐川は、そのすべてを背景音として受け取る。
聞いているのに、聞いていない。
見えているのに、見られていない。
やがて、妻がようやく視線を向ける。
妻「……もういいわ」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「失礼いたしました」
立ち上がるとき、足が少し痺れていることに気づく。
けれど、それを表に出すことは許されない。
背を向け、静かに下がる。
その背後で、夫が言う。
夫「……楽しみだな」
妻が、柔らかく答える。
妻「ええ。本当に」
その声は、もう佐川のためのものではない。
リビングの灯りと、
夫婦の親密さと、
パンフレットの開かれたページ。
そのすべての中で、
佐川は完全に“存在感のないもの”として溶けていった。




