昼下がりの落下音
昼の光がダイニングを満たしている。
白いクロスのかかった丸テーブルの向こうで、夫婦は向かい合って座っていた。
夫「……おいしい」
夫がフォークを置き、素直にそう言う。
妻は少しだけ肩の力を抜いて微笑んだ。
妻「本当?」
夫「ああ。火の通し方、ちょうどいい。
このソースも、前より軽くなってるな」
妻「気づくのね」
夫「毎日食べてるから」
妻「ふふ……じゃあ、成功ですね」
妻は嬉しそうにグラスに手を伸ばす。
その仕草を、夫は満足そうに眺めている。
少し離れたところで、佐川は静かに控えていた。
背筋を伸ばし、視線は床に落としたまま。
(……昼食)
香りだけが、意識に入り込んでくる。
焼いた肉、温かいスープ、野菜の甘み。
(考えるな)
そう思う前に、妻がふと首を傾げた。
妻「……あ」
夫「どうした?」
妻「副菜、ひとつ出し忘れてました」
夫が軽く笑う。
夫「珍しいな」
妻「キッチンに置いたままだと思う」
妻は視線を上げ、淡々と命じる。
妻「佐川」
佐川「……はい」
妻「キッチンにある、小皿。持ってきて」
佐川「かしこまりました」
佐川はすぐに動いた。
歩幅を抑え、音を立てないようにキッチンへ向かう。
(落ち着いて)
自分に言い聞かせる。
ただの配膳。
何も考えず、何も感じず。
小皿を手に取った瞬間、指先がわずかに湿っていることに気づいた。
スープの湯気。
緊張で汗ばんだ掌。
(……大丈夫)
そう思った、そのとき。
つるり、と。
ほんの一瞬、皿が指先から滑った。
——カシャン。
鈍い音。
皿が床に落ち、料理が散らばる。
空気が、一気に冷える。
佐川は、息を止めた。
「……」
妻が、ゆっくりと視線を落とす。
妻「……何をしているの?」
声は低く、感情を削ぎ落としたものだった。
佐川「も、申し訳ございません……」
佐川はすぐに膝をつく。
妻「手元も見ずに運ぶようなものじゃないでしょう」
佐川「……はい」
妻「それとも、食事の邪魔をしたかったの?」
佐川「いえ……決して、そのような……」
夫は口を開かない。
ただ、フォークを置いたまま、静かに見下ろしている。
妻「不注意」
妻は淡々と言い切る。
妻「それだけで、十分」
少し間を置いてから、続ける。
妻「片付けて。音を立てずに」
佐川「……はい」
佐川は床に散らばった料理に手を伸ばす。
ブロッコリーの欠片、ソースの染み、割れた皿。
(……落とした)
その事実だけが、頭の中で反響する。
(また)
ゆっくり、丁寧に拾う。
指先が床に触れるたび、冷たさが伝わる。
背中越しに、夫婦の気配がある。
夫「……さっきの話だけど」
夫が、何事もなかったように口を開く。
夫「旅行、国内がいいかな」
妻「ええ。移動が楽だし」
夫「温泉もいいし、景色が綺麗なところもいい」
妻「季節的には、少し涼しい場所がいいわね」
その会話が、佐川の耳に流れ込む。
(……旅行)
さっき、リビングで聞いた言葉。
今度は、もっと近くで。
夫「じゃあ、山の方?」
夫「海も捨てがたいけど……」
妻が小さく笑う。
妻「二人で決めましょう」
夫「そうだな」
皿を拾う手が、わずかに止まりそうになる。
(……二人で)
佐川は、すぐに動かす。
止まる理由はない。
止まる権利もない。
床を拭き終え、割れた皿をまとめ、深く頭を下げる。
佐川「……失礼いたしました」
妻は視線を向けない。
妻「終わったら下がっていいわ」
佐川「はい」
佐川は静かに立ち上がり、音を消してその場を離れる。
背後では、再び食器の音がする。
夫「冷める前に食べよう」
妻「そうね」
和やかな声。
さっきの出来事は、もう会話の外に追いやられている。
佐川は、その境界線を越えないように、ただ役割に戻った。
(……私は)
片付ける人。
運ぶ人。
失敗して、叱責されて、消える人。
夫婦の笑顔と、旅行の話題が続く中、
佐川の存在は、再び“背景”へと溶けていった。




