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終わらぬ転落  作者: ありり
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佐川の胸の内 〜旅行〜

雑巾を床に押し当てる力を、佐川はほんの少しだけ強めた。


きゅ、と濡れた布が大理石を擦る音。

それ以外は、リビングは驚くほど静かだった。


——誕生日。

——何が欲しい?

——二人で、旅行に。


最初は、意味のある会話として聞くつもりはなかった。

いつものことだ。

この家で交わされる、夫婦の穏やかな言葉。

自分には関係のない、遠い場所の音。


そう思おうとした。


けれど。


「二人で」


その一言が、雑巾を動かす腕を止めさせた。


——二人で。


佐川は、慌てて手を動かし直す。

止まったことに、気づかれたくなかった。


(……旅行)


心の中で、その言葉をなぞるだけで、胸の奥がわずかにざわつく。


旅行。

荷物をまとめて、知らない土地へ行って、

同じ景色を見て、同じものを食べて、

「楽しかったね」と言い合う時間。


(……そう、か)


かつての自分にも、あった。

正確には、「あったはずだ」。


高級ホテルのスイート。

現地ガイド付きの移動。

ブランドショップを巡る予定。


でも——


(……一緒、だっただろうか)


思い出そうとすると、記憶は奇妙に曖昧だった。

隣に誰がいたのか。

その人の声や、表情や、体温。


思い浮かぶのは、予定表と、予約と、手配の連続だけ。


「贅沢じゃなくていい」

「この家を、少し離れてみたい」


奥様の声が、はっきりと耳に届く。


佐川は、思わず雑巾を握りしめた。


(……いいな)


声に出さないよう、強く噛みしめる。


いいな、なんて。

そんな言葉を思う資格は、もうないはずなのに。


この家を離れる。

一時的でもいい、役割を脱いで、

“妻”として、隣に並ぶ。


(私は……)


佐川は視線を上げないまま、床の光を見つめる。


自分がこの部屋にいる理由。

自分の位置。

自分が“二人”に含まれないこと。


それは、毎日、何度も突きつけられている現実だ。


「約束する」


旦那様の声が、低く、穏やかに響く。


その言葉に、胸がひくりと痛む。


(……約束)


誰かと交わす、未来の話。

破られるかもしれない、けれど信じる前提で交わされる言葉。


佐川は、ゆっくりと息を吐いた。


(私は……)


行き先を選ばれることもない。

予定を聞かれることもない。

「一緒に行こう」と言われることは、ない。


あるのは、

「そこ、拭き直して」

「終わったら次は廊下」

「音を立てないで」


それだけだ。


雑巾を絞るため、静かに立ち上がる。

バケツの水が、わずかに揺れる。


夫婦の会話は、もう次の話題に移っている。

笑い声が、柔らかく重なる。


佐川は、その音を背中で受けながら、一歩下がった。


(……それで、いい)


そう言い聞かせるように、心の中で繰り返す。


聞いてしまったのは、偶然。

感じてしまったのは、余計なこと。


私は、使用人。

ここで床を磨き、音を消し、存在を薄くする役割。


——なのに。


バケツを持つ指先が、ほんの少しだけ震えていた。


それを誰にも見せないように、

私は静かに、次の場所へと向かった。

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