誕生日プレゼント
リビングは、午後の光で満たされていた。
大きな窓の向こうに広がる都会の景色は、遠くで静かに瞬いている。
ソファに並んで腰掛ける夫婦。
夫は片腕を背もたれに預け、もう一方の手で妻の顎にそっと触れ、軽く持ち上げる。
妻は驚いたように瞬きをしてから、くすっと小さく笑った。
妻「……なんですか、急に」
夫「いや。こうしてると聞きやすいかなって」
妻「聞きやすい、って?」
夫は少し照れたように視線を逸らし、それから改めて妻を見る。
夫「誕生日、もうすぐだろ。何か欲しいものないのか?」
妻は一瞬、言葉に詰まる。
その間にも、後方では使用人の佐川が黙々と雑巾を動かしている。
大理石の床に膝をつき、一定のリズムで、音を立てないように。
妻「……いいですよ、別に」
夫「またそう言う」
妻「だって、本当に困ってないもの」
妻は夫の指をそっと外し、自分の膝の上に置いた。
妻「バッグも靴も、もう十分あるし。アクセサリーも……あなたが前にくれたの、まだ大事に使ってる」
夫「それはそれ。誕生日は誕生日だ」
妻「でも——」
妻は少し視線を落とし、言葉を選ぶように間を置く。
妻「“物”をもらうのって、なんだか申し訳なくて」
夫は眉をひそめる。
夫「申し訳ない?」
妻「ええ。だって、もう十分すぎるほどもらってるもの」
その言葉に、夫はふっと息をつく。
夫「相変わらずだな。そういうところ」
妻「だめですか?」
夫「いや。……だからこそ、ちゃんと聞きたい」
夫は少し体を寄せ、声を落とした。
夫「“欲しいもの”じゃなくていい。
“したいこと”でもいいから」
妻は驚いたように目を上げる。
一瞬、視線が揺れ、それからゆっくりと微笑んだ。
妻「……それなら」
夫「うん」
妻「旅行に、行きたい」
夫は目を瞬かせる。
夫「旅行?」
妻「ええ。二人で」
夫「国内? 海外?」
妻「どこでもいいの。ただ……」
妻は少しだけ、後方に視線を流す。
佐川は会話に一切関与せず、床に視線を落としたまま、雑巾を絞り直している。
妻「この家を、少し離れてみたいなって」
夫はその視線の意味を理解したように、静かに頷いた。
夫「……なるほど」
妻「贅沢なホテルじゃなくてもいいし、観光地じゃなくてもいい」
夫「じゃあ、温泉とか?」
妻「いいわね」
夫「長めに休み取って」
妻「ええ」
夫「スマホも仕事も忘れて」
妻「それ、あなたが難しそう」
妻がそう言うと、夫は苦笑する。
夫「確かに。でも努力する」
妻「約束ですよ?」
夫「ああ。約束する」
少しの沈黙。
外の景色と、部屋の静けさが溶け合う。
夫は改めて妻の手を取った。
夫「それが欲しいものなら、最高のプレゼントだ」
妻「……ありがとう」
妻は小さく、でも確かな声で言った。
その背後で、佐川は床を拭き終え、静かに立ち上がる。
雑巾を丁寧に畳み、バケツの水を替えるために一歩下がる。
誰にも声をかけられず、誰の視線も受けず。
けれど、確かにその空間の一部として。
夫婦の穏やかな会話と、
無言で続く労働の音だけが、
広いリビングに静かに残っていた。




