支配者 〜昼〜
昼下がりのタワーマンション最上階。
大きな窓の向こうに広がる青空と高層ビル群とは対照的に、室内の空気は重く冷えきっていた。
大理石の床に膝をつき、茶色の毛玉だらけのカーディガン姿で雑巾を滑らせる佐川。髪は後ろでひとつに束ねられているが、うなじにはうっすら汗が滲んでいる。
その背後、白いソファにゆったりと腰掛けるこの家の女王は、深紅のドレスを纏い、脚を優雅に組んでいた。
妻「遅いわね。」
低く、冷たい声。
佐川の手が止まる。
佐川「申し訳ございません、奥様。」
妻「謝る前に、手を動かしなさい。お前の存在価値はそれだけでしょう?」
佐川「……はい。」
再び床を拭き始めた瞬間。
コツ、とヒールの先が顎に触れた。
妻「顔を上げなさい。」
命令と同時に、妻の黒いパンプスのつま先が佐川の顎をぐいと持ち上げる。
強制的に視線を上げさせられ、佐川の瞳が揺れる。
妻「答えなさい。お前の立場は?」
ヒールの先が少し食い込む。
沈黙は許されない。
妻「……奥様の、奴隷です。」
静かな部屋にその言葉が落ちる。
奥様は薄く笑った。
妻「聞こえないわね。もう一度。」
佐川「奥様の……奴隷です。そして奥様の所有物です」
妻「そう。ようやく理解したのね。」
ヒールが顎から離れた瞬間、佐川は再び頭を垂れる。
だが奥様は足元を見下ろし、眉をひそめた。
妻「あら。」
佐川「……?」
妻「今、お前に触れたわよね。」
佐川の肩がびくりと震える。
妻「お前の汚い汗で、私の靴が汚れたじゃない。」
佐川「も、申し訳ございません……!」
妻「何が申し訳ないの?」
佐川「……私の不注意で、奥様の靴を……」
妻「違うわね。」
妻はゆっくり脚を下ろし、ヒールの先を佐川の目の前に差し出す。
妻「あなたが“汚い存在”だという事実よ。」
沈黙。
妻「磨きなさい。」
佐川「……はい。」
佐川は慌てて手元の雑巾に手を伸ばしかけ、止まる。
そして、自分のカーディガンの裾を握りしめる。
佐川「それで拭きます。」
そう言って、着古した茶色のカーディガンでパンプスを拭こうとする。
次の瞬間。
パシン、と鋭い音。
ヒールが床を叩いた。
妻「触るな。」
氷のような声。
佐川「……え?」
妻「その雑巾みたいな服で、私の靴に触れるなと言ったの。」
佐川の手が止まる。
妻「お前の服は、床よりも汚いのよ?」
佐川「申し訳ございません……」
妻「本当に理解しているの?」
妻は再びヒールの先で顎を持ち上げる。
妻「お前は“奴隷”。物。お前は私の所有物。
物が、主人の持ち物を汚していいわけないでしょう?」
佐川「……はい。」
妻「じゃあどうするの?」
佐川の喉が鳴る。
佐川「……手で、磨きます。」
妻「そう。最初からそうしなさい。」
ヒールが離れる。
佐川は素手で黒いパンプスを包み込むように持ち、必死に擦り始める。
指先が震え、爪が擦れて白くなる。
奥様は見下ろしながら、淡々と告げる。
妻「お前が触れた時点で価値が落ちるのよ。
それを理解しなさい。」
佐川「……はい、奥様。」
妻「声が小さい。」
佐川「はい、奥様!」
妻「お前は誰のもの?」
佐川「奥様のものです。」
妻「立場は?」
佐川「奥様の奴隷です。」
奥様はゆっくりと立ち上がる。
ヒールが大理石に響く。
妻「よく覚えておきなさい。
お前は床を拭くための存在。
私を見上げるための存在。
それ以上でも、それ以下でもない。」
佐川は額が床につくほど頭を下げる。
佐川「……ありがとうございます。」
その言葉に、奥様は小さく笑った。
妻「感謝する立場じゃないでしょう。」
静かな昼の光が差し込むリビング。
高層の景色は変わらない。
だが床に跪く佐川の世界は、ただ足元だけだった。




