旦那様の嫉妬⑦
朝の光が、何事もなかったかのように高層のリビングを照らしていた。
昨夜までの緊張も、懇願も、閉ざされた寝室の重い空気も、
まるで磨き上げられた床に拭い去られたかのように消えている。
ソファには、寄り添う二人。
夫はゆったりと脚を組み、
片腕を自然に妻の肩へ回している。
夫「まだ考えている顔だ」
低い声。
妻はわずかに目を細める。
妻「いいえ。旦那様が気にかけてくださったと、思っております」
その声は穏やかだ。
従順で、柔らかく、完全に“隣にいる者”の声音。
夫は指先で妻の顎を軽く持ち上げる。
夫「俺の妻だ。余計なことを考えるな」
妻「はい、旦那様」
視線が絡み、微笑みが交わされる。
そこに昨日の影はない。
むしろ昨日よりも距離は近い。
昨日、縛られた分だけ、今日の密着は強い。
――確認し合うように。
――所有を確かめるように。
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玄関前。
運転手はいつも通り、深く頭を下げる。
運転手「本日もよろしくお願いいたします」
夫は一瞬だけ視線を向ける。
夫「線は守れ」
短い。
運転手「承知しております」
それだけで終わる。
解雇はない。
だが温情でもない。
生かされているだけ。
妻は車に乗り込む際、運転手を一瞥することもない。
昨日までの“世間話”の余地は消えた。
彼女は夫の隣だけを見る。
それが正しい姿だと示すように。
⸻
その頃、室内では。
佐川が膝をつき、床を磨いている。
茶色のカーディガンは相変わらず擦り切れ、
袖口は白く毛羽立っている。
玄関の扉が開く音。
ヒールの規則正しい響き。
妻「佐川」
冷たい声。
佐川「はい、奥様」
妻「リビング中央、映り込みが歪んでる」
佐川は床を見る。
自分の顔が、わずかに揺れている。
佐川「申し訳ございません」
妻「謝罪ではなく結果を出しなさい」
淡々とした指導。
昨日、寝室で懇願していた人物と同一とは思えない。
妻は続ける。
妻「雑巾の絞りが甘いわ。水分量も管理できないのかしら」
佐川「……以後、徹底いたします」
妻「“以後”は何度目?」
言葉が刺さる。
佐川は黙る。
夫がソファから眺めている。
その視線は冷たいが、興味はない。
佐川は景色の一部。
磨かれるべき床と同じ。
⸻
午後。
夫婦は再び並んで座る。
夫は妻の腰に腕を回し、引き寄せる。
夫「今日は外で食事にしよう」
妻「まあ、嬉しい」
自然なやり取り。
昨日の衝突は、むしろ二人の距離を縮めた。
支配と従順は、均衡を取り戻している。
佐川は少し離れた場所で控えている。
視界に入るのは、
中心にいる二人の輪郭。
その外側に、自分。
昨日、妻は夫に懇願した。
だが今日は、
妻「佐川、その姿勢では見苦しいわ」
静かに、鋭く。
妻「背筋を伸ばしなさい。使用人としての体裁を保ちなさい」
佐川「はい、奥様」
言われた通り、背筋を伸ばす。
奥様は一瞬だけ満足げに頷く。
夫は微笑む。
夫「教育が行き届いているな」
その言葉は、褒め言葉でもある。
奥様は控えめに答える。
妻「当然よ。私の管理下ですもの」
佐川の胸の奥が、ひりつく。
昨日、懇願していた人。
今日は、自分を“管理する側”。
この家の序列は、揺らがない。
......旦那様が頂点。
......奥様が隣。
.......そして私、佐川は――
......足元。
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夜。
二人は並んで外出の準備をする。
妻は豪華なネックレスを身につける。
夫が後ろから留め具を整える。
その距離は親密で、自然。
「似合っている」
「ありがとうございます、旦那様」
佐川はその光景を横目に、玄関を整える。
床は完璧に磨かれている。
自分の姿がはっきり映るほどに。
そこに映るのは、
選ばれた者ではない顔。
懇願することも許されない存在。
外へ向かう夫婦の背中。
寄り添う影。
扉が閉まる。
静寂。
佐川は再び膝をつく。
昨日も今日も、何も変わらない。
変わったのは、
二人の結束だけ。
そして自分の位置の確認だけ。
タワーマンション最上階。
光に満ちた部屋で、
残酷な秩序は、何事もなかったかのように続いていた。




