表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
36/82

旦那様の嫉妬⑦

朝の光が、何事もなかったかのように高層のリビングを照らしていた。


昨夜までの緊張も、懇願も、閉ざされた寝室の重い空気も、

まるで磨き上げられた床に拭い去られたかのように消えている。


ソファには、寄り添う二人。


夫はゆったりと脚を組み、

片腕を自然に妻の肩へ回している。


夫「まだ考えている顔だ」


低い声。


妻はわずかに目を細める。


妻「いいえ。旦那様が気にかけてくださったと、思っております」


その声は穏やかだ。

従順で、柔らかく、完全に“隣にいる者”の声音。


夫は指先で妻の顎を軽く持ち上げる。


夫「俺の妻だ。余計なことを考えるな」


妻「はい、旦那様」


視線が絡み、微笑みが交わされる。


そこに昨日の影はない。


むしろ昨日よりも距離は近い。


昨日、縛られた分だけ、今日の密着は強い。


――確認し合うように。


――所有を確かめるように。



玄関前。


運転手はいつも通り、深く頭を下げる。


運転手「本日もよろしくお願いいたします」


夫は一瞬だけ視線を向ける。


夫「線は守れ」


短い。


運転手「承知しております」


それだけで終わる。


解雇はない。


だが温情でもない。


生かされているだけ。


妻は車に乗り込む際、運転手を一瞥することもない。


昨日までの“世間話”の余地は消えた。


彼女は夫の隣だけを見る。


それが正しい姿だと示すように。



その頃、室内では。


佐川が膝をつき、床を磨いている。


茶色のカーディガンは相変わらず擦り切れ、

袖口は白く毛羽立っている。


玄関の扉が開く音。


ヒールの規則正しい響き。


妻「佐川」


冷たい声。


佐川「はい、奥様」


妻「リビング中央、映り込みが歪んでる」


佐川は床を見る。


自分の顔が、わずかに揺れている。


佐川「申し訳ございません」


妻「謝罪ではなく結果を出しなさい」


淡々とした指導。


昨日、寝室で懇願していた人物と同一とは思えない。


妻は続ける。


妻「雑巾の絞りが甘いわ。水分量も管理できないのかしら」


佐川「……以後、徹底いたします」


妻「“以後”は何度目?」


言葉が刺さる。


佐川は黙る。


夫がソファから眺めている。


その視線は冷たいが、興味はない。


佐川は景色の一部。


磨かれるべき床と同じ。



午後。


夫婦は再び並んで座る。


夫は妻の腰に腕を回し、引き寄せる。


夫「今日は外で食事にしよう」


妻「まあ、嬉しい」


自然なやり取り。


昨日の衝突は、むしろ二人の距離を縮めた。


支配と従順は、均衡を取り戻している。


佐川は少し離れた場所で控えている。


視界に入るのは、


中心にいる二人の輪郭。


その外側に、自分。


昨日、妻は夫に懇願した。


だが今日は、


妻「佐川、その姿勢では見苦しいわ」


静かに、鋭く。


妻「背筋を伸ばしなさい。使用人としての体裁を保ちなさい」


佐川「はい、奥様」


言われた通り、背筋を伸ばす。


奥様は一瞬だけ満足げに頷く。


夫は微笑む。


夫「教育が行き届いているな」


その言葉は、褒め言葉でもある。


奥様は控えめに答える。


妻「当然よ。私の管理下ですもの」


佐川の胸の奥が、ひりつく。


昨日、懇願していた人。


今日は、自分を“管理する側”。


この家の序列は、揺らがない。


......旦那様が頂点。


......奥様が隣。


.......そして私、佐川は――


......足元。



夜。


二人は並んで外出の準備をする。


妻は豪華なネックレスを身につける。


夫が後ろから留め具を整える。


その距離は親密で、自然。


「似合っている」


「ありがとうございます、旦那様」


佐川はその光景を横目に、玄関を整える。


床は完璧に磨かれている。


自分の姿がはっきり映るほどに。


そこに映るのは、


選ばれた者ではない顔。


懇願することも許されない存在。


外へ向かう夫婦の背中。


寄り添う影。


扉が閉まる。


静寂。


佐川は再び膝をつく。


昨日も今日も、何も変わらない。


変わったのは、


二人の結束だけ。


そして自分の位置の確認だけ。


タワーマンション最上階。


光に満ちた部屋で、


残酷な秩序は、何事もなかったかのように続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ