旦那様の嫉妬⑤ 〜夫の胸の内〜
あの瞬間、胸の奥がざらついた。
運転手の口から出た「娘」の話。
自転車に乗れた、笑った、転んだ――
ありふれた、温かい家庭の断片。
その横で、妻が笑っていた。
柔らかく、穏やかに。
あの笑顔は、本来なら俺だけのものだ。
だがそれ以上に、胸に刺さったのは別のことだった。
⸻
子供。
その言葉は、この家では慎重に扱われてきた。
医師の曖昧な説明。
検査結果。
「もう少し様子を見ましょう」という言葉。
妻は何も言わない。
言わないが、夜、ふと窓の外を見ていることがある。
小さな子供連れの家族を、長く目で追っていることがある。
俺は知っている。
彼女が気にしていないはずがない。
自分を責めていないはずがない。
⸻
だからこそ、腹が立った。
運転手は悪気なく話したのだろう。
だが、軽い世間話で済む内容ではない。
妻にとって、あれは刃だ。
まだ形にならない未来を、
他人の完成された家庭と比べさせる言葉。
しかも、それを笑顔で聞いている。
無理をしているのか。
平気なふりをしているのか。
それを見抜けなかった自分にも、苛立った。
⸻
「嫉妬させるな」
あれは本音だった。
だが、嫉妬だけではない。
妻が“足りないもの”を意識させられる状況を、
他の男に作られるのが許せなかった。
子供の話は、俺と妻の問題だ。
他人が入り込む場所ではない。
⸻
妻は懇願した。
「雇用は続けてください」
あの声は、俺に逆らわない声。
逆らえないのではない。
信じている声。
俺が決めると知っている声。
だからこそ、重い。
彼女は俺の隣にいる。
だが、心の奥で、どれほど不安を抱えているのか。
もし子供ができなかったら。
もし、俺がそれを理由に失望したら。
そんなことを、考えていないはずがない。
⸻
俺は思う。
子供は欲しい。
だが、妻を責める気はない。
それでも、世間は違う。
家柄も、周囲も、無言で期待する。
だからこそ。
他人の「娘が」「息子が」という言葉が、
彼女に向けられるのが許せなかった。
それを笑顔で受け止める彼女の姿が、
強がりに見えてしまった。
⸻
「俺以外を見るな」
あれは支配ではない。
守りだ。
少なくとも、俺はそう思っている。
妻が余計な比較をしなくていいように。
余計な視線を浴びなくていいように。
この家の中だけは、
彼女が不足を感じない場所であってほしい。
だが――
それが、本当に守りになっているのか。
それとも、ただの独占なのか。
答えは、まだ出ていない。




