旦那様の嫉妬④ 〜佐川の胸の内〜
最初に見たとき、信じられなかった。
あの奥様が――
いつも冷酷で、完璧で、上に立ち、
私を「お前」「佐川」と呼び、視線一つで黙らせるあの方が。
旦那様の前で、膝をつき、懇願していた。
⸻
私はずっと思っていた。
この家で一番強いのは奥様だと。
旦那様を穏やかに操り、
高価なネックレスをまとい、
堂々と腕を組んで歩く。
その背中を、私は床から見上げるだけの存在。
けれど、あの日。
寝室の前で聞いた声は、違った。
「どうか……雇用だけは」
かすれた声。
頭を下げる音。
あの誇り高い奥様が、
これまで私の前では頭を下げなかった奥様が、
旦那様には逆らわない。
逆らえないのではない。
逆らわない。
それが、私には何よりも衝撃だった。
⸻
私は命令される。
怒鳴られることもある。
名前を呼び捨てにされる。
でも、私は懇願したことはない。
許しを乞う資格すらないから。
私が何かを願えば、それは「図々しい」になる。
でも奥様は違う。
懇願できる。
願うことが許される。
それは――
“選ばれている”証。
⸻
旦那様の言葉を思い出す。
「俺以外を見るな」
あれは怒りだったのか。
それとも独占か。
奥様は、迷わず頷いた。
ほんの一瞬、ためらいはあった。
でも最終的には、従った。
あの瞬間、私は気づいた。
奥様は弱いのではない。
旦那様の前でだけ、
弱さを見せることを許されている。
それが、二人の形。
⸻
私は、床を磨く。
奥様は、隣に座る。
私は廊下で待つ。
奥様は寝室に入る。
私は忘れろと命じられる。
奥様は所有を告げられる。
立場は違う。
でも――
なぜか、胸の奥が重い。
嫉妬なのか。
羨望なのか。
それとも、恐怖か。
あの奥様でさえ、
旦那様の前では従う。
なら私は?
もし怒りを向けられたら?
私は、懇願すらできない。
⸻
奥様が旦那様を見上げるあの目。
恐れと、安堵と、そして――
どこか満たされたような色。
あの目を見たとき、私は理解した。
この家で本当に強いのは、
旦那様。
そして奥様は、その隣を選んでいる。
私は、選ばれない。
選ばれないから、傷つけられない。
けれど。
選ばれているからこそ、縛られる奥様を見て。
ほんの少しだけ、思ってしまった。
――私は、どちらが不幸なのだろう。




