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終わらぬ転落  作者: ありり
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旦那様の嫉妬③

寝室の扉が閉まってから、しばらくして。


リビングには、ただ時計の針の音と、雑巾が床を擦る音だけが響いていた。


佐川は視線を上げない。

上げれば、あの閉ざされた扉を見てしまうから。


――中で何が行われているのか。


考えるな、と自分に言い聞かせる。


だが、ふと。


かすかな声が漏れ聞こえた。


低い男の声。

抑えられた女の声。


佐川の手が、止まる。


胸の奥がざわつく。


妻「……私は、愚かでした」


寝室の向こうから、妻の声がかすかに響く。


夫「もう一度言え」


夫の声は、静かで、感情を削ぎ落としたもの。


妻「……旦那様以外の男と笑い合うなど、軽率でした」


沈黙。


夫「俺以外の男に、未来の話を聞く必要はあるか」


妻「ありません」


即答。


佐川の心臓が、ひどく重く鳴る。


......あの奥様が、否定も反論もせず、ただ従っている。


やがて。


夫「佐川!」


扉越しに、旦那様の声。


佐川は反射的に立ち上がる。


佐川「は、はい!」


夫「昼食を持ってこい」


佐川「かしこまりました」


震える指でトレイを整える。

高級な器、温かいスープ、焼き立てのパン。


自分は食べられない料理。


寝室の前に立つ。


ノックは一度。


佐川「失礼いたします」


返事はない。


だが、命令はあった。


入室の許可は求めるな。


ゆっくりと扉を開ける。


――空気が違う。


カーテンは半分閉じられ、昼の光が柔らかく差し込んでいる。


......ベッドの上に座る旦那様。

......その前に、床に膝をついた奥様。


ドレスは少し乱れ、ネックレスが胸元で揺れている。


妻の視線は、床。


佐川は目を合わせないようにトレイを置く。


夫「遅い」


低い一言。


佐川「申し訳ございません」


夫「食事はここで取る」


夫は妻の顎を持ち上げる。


夫「お前は、俺の前で食べろ」


妻は小さく頷く。


佐川は立ち去ろうとする。


夫「待て」


背筋が凍る。


夫「夕食も同じだ。時間はずらすな。それから俺たちが食事を終わるまで、部屋の外で待機していろ」


終わるまで。


その言葉の意味が、重く沈む。


佐川「……承知いたしました」


扉を閉めた瞬間、佐川は小さく息を吐いた。


廊下に座り込むことは許されない。

壁に背をつけることも許されない。


ただ、直立して待つ。


中から聞こえる低い会話。


妻「……本当に、運転手は解雇しないのですね?」


妻のかすれた声。


夫「俺が決める」


冷たい返答。


夫「お前が願うから残すのではない」


妻「……はい」


夫「だが覚えておけ。お前が誰のものかを忘れた瞬間、あいつの居場所はなくなる」


沈黙。


佐川の胸が締めつけられる。


支配。


愛情の名を借りた、完全な所有。


そして夜。


再びトレイを運ぶ。


扉を開けると、ベッドは乱れている。


ドレスは床に落ち、シーツは皺だらけ。


夫「ベッドを整えろ」


夫の命令。


妻は食事を口に運びながら、視線を伏せたまま。


佐川はシーツを引き、皺を伸ばす。


指先が震える。


夫「佐川」


佐川「はい」


夫「お前は見ただろう」


低い声。


夫「妻が懇願する姿を」


喉が渇く。


佐川「……はい」


夫「忘れるな」


その一言は、冷たい刃のようだった。


妻が小さく目を閉じる。


佐川は深く頭を下げる。


――私は、懇願すらできない。


廊下へ戻ると、夜景が窓に広がっていた。


高層の光が瞬いている。


だが、この家の中だけが、息苦しいほど静かだった。

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