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転落  作者: ありり
転機
29/203

許可なき言葉

高層階のリビング。


午後の光が大きな窓から差し込み、磨き上げられた床に白く反射している。


妻は買い物で外出中。

静まり返った室内に、窓ガラスを拭く布の音だけが小さく響いていた。


ソファーには夫が腰掛けている。

ネイビーのシャツの胸元をわずかに開き、片足を組み、グラスの琥珀色を揺らしている。


佐川は窓に向き直ったまま、何度も呼吸を整えた。


(……今なら、怒られないかもしれない)


妻のいない時間。

それは佐川にとって、ほんのわずかな「隙」だった。


佐川「……旦那様」


小さな声。


夫は視線だけを向ける。


夫「何だ」


佐川「本日は、早くお戻りで……お仕事、お疲れではございませんか」


窓を拭く手は止めない。

視線も合わせない。

ただ、震える声だけが空間に落ちる。


夫「別に」


短い返答。


それでも佐川は、勇気を振り絞る。


佐川「今日は、空が澄んでおりますね。……あの、遠くの山まで見えます」


沈黙。


数秒後、夫がふっと外を見る。


夫「……本当だな」


その一言だけで、佐川の胸が熱くなる。


(返してくださった……)


それだけで十分だった。


佐川「昔、あの方角に別荘があったと伺いました」


夫「……ああ。売ったがな」


佐川「そうでございますか……」


ほんの短い、世間話。


それなのに。


佐川は、いつの間にか窓から離れ、ソファーから数歩の距離に立っていた。


夫も、完全には拒絶しなかった。


夫「お前、前はああいう場所に住んでいたんだろう」


唐突に言われ、佐川の指先が凍る。


佐川「……はい」


夫「今は床の側か」


冷淡な声。


それでも――会話が続いていることが、嬉しかった。


佐川「身に余る過去でございます」


その瞬間。


玄関の電子音が鳴った。


だが、二人は気づかなかった。


話の流れが、わずかに続いたからだ。


夫「……後悔してるか」


佐川「……しておりません」


嘘だった。


だが、その嘘を口にした瞬間。


カツ、カツ、と。


ヒールの音が廊下を進む。


低く、硬い音。


佐川の背筋が凍る。


振り返ったときには、もう遅かった。


リビングの入り口に、妻が立っていた。


蒼いワンピースに豪華なネックレス。

涼しい微笑み。


だが、目は笑っていない。


妻「……楽しそうね」


空気が一瞬で凍りつく。


佐川は床に崩れるように跪く。


佐川「お、お帰りなさいませ、奥様……」


妻「何をしていたの?」


静かな声。


それが何よりも恐ろしい。


佐川「窓を、拭いておりました」


妻「それは見れば分かるわ」


一歩、近づく。


妻「“何をしていたの”って聞いているの」


沈黙。


夫はグラスを置いた。

何も言わない。


助けは、来ない。


佐川「……世間話を、少し」


その瞬間。


乾いた音が響いた。


妻の手が、佐川の頬を打った。


顔が横に弾かれ、床に倒れ込む。


妻「身の程を忘れたの?」


声は低いまま。


妻「お前が誰と話していいか、決めるのは誰?」


佐川「……奥様、でございます」


妻「誰の許可を得たの?」


佐川「……得て、おりません」


もう一度、ヒールが佐川の指を踏みつける。


骨が軋む。


妻「私のいない間に、主人と談笑?」


談笑。

その言葉が刃のように刺さる。


佐川「短い世間話でした……」


妻「短ければいいの?」


奥様は佐川の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。


妻「目を合わせた?」


佐川「……はい」


妻「笑った?」


佐川「……」


妻「笑ったのね」


夫は、静かにそれを見ている。


止めない。


妻「お前は物よ。掃除道具。空気。理解しているはずでしょう?」


佐川「……はい」


妻「主人に話しかける権利なんて、誰が与えたの」


言葉が出ない。


妻は佐川を突き飛ばし、床に転がす。


妻「窓拭きが終わったら、廊下も全部やり直し。今夜の食事は抜き」


そして、最後に。


妻「私がいない時間でも、主人は“私のもの”。それを忘れたら――次は声も出せなくしてあげる」


静かに告げる。


佐川の視界が滲む。


夫は立ち上がり、妻の肩に軽く手を置く。


夫「もういいだろう」


それは庇いではない。

単なる区切り。


妻はムスッとしたまま。


妻「ええ。今回は、ね」


二人は並んで寝室へ向かう。


佐川は床に額をつけたまま動けない。


ほんの数分の世間話。


空の話。

別荘の話。


それだけで。


自分は再び、完全に「物」であることを思い知らされた。


窓の外では、澄んだ空が広がっている。


しかし、佐川にはもう見上げる資格すらなかった。


佐川は「この家で最も冷酷なのは奥様だ」と、どこかで決めつけていた。

だが数日後――“本当に恐ろしいのは誰か”を突きつけられる。

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