落としたのは皿か、誇りか
高層階のダイニング。
昼の光が大きな窓から差し込み、白いテーブルクロスを透かして床に淡い影を落としている。
丸いテーブルには整えられた昼食。
サラダ、パン、スープ、オレンジジュース。
整然と、上品に。
その足元。
床に散らばったブロッコリー、ミニトマト、砕けたクラッカー。
皿の破片。
そして、跪く佐川。
茶色のカーディガンは毛玉だらけで、肘は擦り切れ、糸がほつれている。
黒いスカートの膝は床に押し付けられ、タイルの冷たさがじわりと伝わる。
妻は椅子に腰掛けたまま、優雅にフォークを動かしていた。
妻「……落としたの?」
静かな声。
佐川は俯いたまま答える。
佐川「……申し訳ございません。手が、滑りまして……」
妻「ふうん。」
フォークの先でトマトを刺し、口へ運ぶ。
妻「42歳にもなって、手が滑るの?」
かすかな笑み。
佐川の指先は震えながら、床のブロッコリーを拾い上げる。
皿に戻すことは許されない。
彼女の皿は、残飯を集めるためのものだ。
佐川「すぐに片付けます。」
妻「“すぐに”じゃないわ。今、ここで全部拾いなさい。」
佐川「……はい。」
奥様は足を組み直す。
妻「あなた、自分がどんな立場か分かっている?」
佐川「……はい。」
妻「言ってみなさい。」
佐川の喉がひくりと動く。
佐川「私は……奥様にお仕えする身です。」
妻「それだけ?」
沈黙。
佐川「……借金を抱えた、使用人です。」
妻は軽く笑った。
妻「使用人? 甘いわね。」
フォークを置き、顎を指で支える。
妻「あなたは“選ばれた”の。私が、使ってあげているの。」
その言葉が、ゆっくりと突き刺さる。
佐川は割れた皿の破片を拾いながら、視線を上げない。
佐川「……感謝しております。」
妻「本当に?」
妻は椅子を少し引き、立ち上がる。
ヒールの音が床に響く。
佐川の目の前で止まる。
妻「顔、上げなさい。」
ゆっくりと顔を上げる佐川。
奥様は見下ろす。
妻「みっともないわね。そのカーディガン。」
指先で、ほつれた糸をつまむ。
妻「何日洗ってないの?」
佐川「……五日、です。」
妻「五日。」
鼻で笑う。
妻「お前にぴったり。雑巾みたい。」
佐川の胸がかすかに上下する。
妻は足先で、床に残ったクラッカーをわざと押し広げる。
妻「まだ落ちてる。」
佐川「……申し訳ございません。」
佐川は再び這うように手を伸ばす。
妻は席に戻り、スープを口にする。
妻「ねえ、佐川。」
佐川「はい。」
妻「昔は、お前がこうして誰かを見下ろしていたのよね?」
手が止まる。
佐川「……。」
妻「大きなお屋敷で、若い夫を連れて、使用人に命令して。」
佐川「……過去の話です。」
妻「でも現実は?」
佐川は床を見つめたまま答える。
佐川「……今は、奥様にお仕えする身です。」
妻「そう。」
満足そうに頷く。
妻「分かってるじゃない。」
しばらく、食器の音だけが響く。
佐川の皿には、拾い集めた野菜のかけらとパン屑が積み重なっていく。
妻が食事を終え、ナプキンで口元を拭う。
妻「それ、食べなさい。」
佐川の指が止まる。
佐川「……はい?」
妻「落としたんでしょう? あなたの責任。」
静かな声。揺らぎはない。
佐川「でも……床に……」
妻「何?」
視線が鋭くなる。
妻「食べられないの?」
佐川の喉が鳴る。
佐川「……いただきます。」
皿を持ち、口へ運ぶ。
砂のような食感。
冷えた油。
かすかなタイルの粉塵の味。
妻がはそれを眺める。
妻「ちゃんと噛みなさい。」
佐川「……はい。」
妻「美味しい?」
問いかけ。
佐川はわずかに目を閉じる。
佐川「……はい。」
妻「嘘。」
くすっと笑う。
妻「でもね。」
奥様は立ち上がり、窓の方へ歩く。
妻「お前はそうしているのが、一番似合う。」
振り返らないまま、言う。
妻「床に這いつくばって、私の足元で、残り物を拾う。」
沈黙。
妻「昼食の時間よ、佐川。お前にとっても。」
佐川は皿を握りしめたまま、最後の一片を口に入れる。
窓の外には、遠く霞む街並み。
かつて自分が見下ろしていた高さ。
今は、足元から見上げるしかない高さ。
妻は背中越しに言う。
妻「片付けたら、午後の掃除。玄関と浴室。終わったら私室に来なさい。」
佐川「……かしこまりました。」
その声は、驚くほど静かだった。
床はきれいになっている。
だが、佐川の手にはまだタイルの冷たさが残っていた。
そして、妻の昼食は、何事もなかったかのように優雅に終わっていた。




