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終わらぬ転落  作者: ありり
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支配者たちの朝

朝。


高層タワーマンションの寝室は、すでに白い陽光に満ちていた。

窓の向こうには霞む都会の景色。けれどその美しさとは裏腹に、部屋の空気は張り詰めている。


コンコン、と控えめなノック。


妻「……入っていいわ」


低く、艶のある声。

佐川は背筋を伸ばし、静かにドアを開ける。


妻がは紺のシルクのパジャマ姿で立っていた。髪は無造作に束ねられ、寝起きの色気をまとっている。その視線は、いつものように冷ややかだ。


妻「佐川」


佐川「……はい、奥様」


妻「旦那様とこれからお風呂に入るわ。その間にベッドメイク。シーツは全部替えて。枕も。床も軽く掃除しておきなさい」


佐川「かしこまりました」


妻「それから――」


奥様は一歩近づき、佐川の顔を見下ろす。


妻「朝食。近くのコンビニでいいわ。旦那様が好きなサンドイッチとコーヒー。私の分はヨーグルトとサラダ。私たちが風呂から出るまでに、ここへ。テーブルに整えておきなさい」


風呂場から、部屋の主の声が響く。


夫「――おい、まだか?」


奥様の表情が一瞬で柔らぐ。


妻「今行きます」


そして再び佐川へ視線を戻す。


妻「間に合わなかったら、どうなるかわかっているわね?」


佐川はわずかに喉を鳴らした。


佐川「……はい」


妻は微笑んだ。その笑みは、優しさとは無縁だった。


ドアが閉まり、浴室の扉が開く音。

ほどなくして、シャワーの水音と、二人の低い笑い声が聞こえ始める。



佐川は無言で動いた。


乱れたシーツを剥がし、洗濯かごへ。

マットレスの皺を伸ばし、新しいシーツを丁寧に広げる。


ベッドの上にはまだ、二人の体温が残っている。


(……急がなければ)


掃除機をかけ、サイドテーブルを拭き、ゴミをまとめる。

終わるとすぐに部屋を飛び出し、エレベーターで一階へ。コンビニまで走る。


息が荒くなる。

それでも時間は足りない。


袋を抱えて戻り、呼吸を整える。


(間に合って……)


寝室前。


中から、笑い声が聞こえる。


そして――


水音は止んでいる。


代わりに、低く重なる声。

甘く、絡むような囁き。


ベッドの軋むわずかな音。


佐川の足が止まる。


(……遅れた、間に合わなかった)


扉の前で立ち尽くす。

袋の中のコーヒーが、かすかに揺れる。


中から、奥様の抑えた声が漏れる。


妻「……旦那様、そんな……」


夫「お前が可愛いからだ」


重なる息遣い。

言葉にならない、柔らかい吐息。


佐川は視線を落とした。


(今、入るべきか……)


数分。

いや、それ以上かもしれない。


音は途切れない。


やがて、少し落ち着いた気配。


佐川は意を決し、ノックする。


コン、コン。


沈黙。


再び、コン。


中から妻の声。


妻「……入って」


静かにドアを開ける。


ベッドの中。

白いシーツの上で、二人は寄り添っている。


妻は上体を起こし、佐川を見る。

頬はわずかに紅潮し、目は鋭い。


妻「……遅いわね」


佐川は深く頭を下げた。


佐川「申し訳ございません。朝食を――」


妻「間に合わないことが、どういう意味か分かっているの?」


その声は静かだが、刃物のようだった。


夫は無言で妻がの肩を抱いている。


妻「私たちの時間を邪魔するなと言ったはずよ」


佐川「……申し訳ございません」


妻「あなたの都合なんて関係ないの。私たちが最優先。それが、あなたの立場でしょう?本当に役立たず」


佐川は床を見つめたまま。


佐川「はい、奥様」


妻は鼻で笑う。


妻「情けないわね。かつては自分が夫に尽くさせていたのでしょう?」


佐川の肩がわずかに震える。


佐川「……」


妻「今は何? ドアの外で、私たちの声を聞いていたの?」


その言葉に、佐川の顔がわずかに青ざめる。


妻「……違います」


佐川「違う? 聞こえないわけないでしょう」


妻はゆっくり整えながら言う。


妻「あなたには一生、ああいう時間は戻らないわ」


夫が小さく笑う。


夫「もういいだろ」


妻は夫の胸に軽く触れ、微笑む。


妻「ええ。そうね」


そして再び、冷たい視線を佐川へ。


妻「朝食を置いたら、さっさと出て行きなさい」


佐川はテーブルに丁寧に並べる。

手が、かすかに震えている。


妻「それから」


ドアに向かう佐川を呼び止める。


妻「今日は寝室以外、全部掃除し直しなさい。廊下も、玄関も、リビングも。隅々まで」


佐川「……はい」


妻「ここには二度と勝手なタイミングで入らないこと」


佐川「……はい、奥様」


妻「あなたの居場所は、ここじゃないの」


その一言が、静かに突き刺さる。


佐川は深く一礼し、部屋を出る。


ドアが閉まる。


数秒の沈黙。


そしてまた、ベッドの軋む音。


......奥様の甘い笑い声。


......旦那様の低い囁き。


重なる吐息。


廊下に立つ佐川の背中に、その音が容赦なく降り注ぐ。


彼女は目を閉じる。


(……私は、使用人)


雑巾のようなカーディガンの袖を握りしめる。


やがて、ゆっくりと歩き出す。


廊下を。

玄関へ。

リビングへ。


背後から、また一つ、甘い声が漏れた。


それは、この家の主たちの幸福の証。


そして――

彼女の立場を、何よりもはっきりと示す音だった。

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