絶対君主
夜のタワーマンション。
高層階の窓の向こうには、眠らない都会の灯りが広がっている。
その静かな廊下で、佐川は黙々と雑巾を動かしていた。大理石の床に映る自分の姿を見つめながら、無言で、ただ命じられた仕事をこなす。
寝室の扉は閉ざされている。
その向こう側で、夫婦は二人きりの時間を過ごしていた。
——カチャリ。
かすかな金具の音が、扉越しに響く。
佐川は一瞬だけ手を止める。
そして、何も聞こえなかったかのように、再び床を拭き始めた。
寝室の中。
普段、佐川に厳しく命じる妻は、今は夫の前で静かに立っている。
夫は落ち着いた表情で、妻の首元に黒い首輪をかける。
夫「緊張しているのか?」
低く、穏やかな声。
妻は小さく首を振る。
妻「……いいえ。あなたの前では、私はあなたのものですから。」
その声は、昼間の冷ややかな響きとはまるで違う。
どこか甘く、従順で、愛情に満ちている。
夫は満足そうに微笑み、妻の顎に指を添える。
夫「素直だな。」
妻は目を閉じる。
それは命令に従う姿ではなく、愛されることを知っている者の安心した表情だった。
やがて、寝室からは静かな囁き声と、重なり合う気配が漏れ始める。
廊下。
佐川の雑巾は、一定のリズムで床を滑っている。
しかし、その耳にははっきりと届いていた。
甘く、満たされた声。
息を重ねる音。
昼間、自分に向けられる冷酷な命令口調とは違う、柔らかな呼びかけ。
佐川の指先がわずかに震える。
(奥様は……あんな声で、旦那様を……)
胸の奥に、言葉にならない感情が広がる。
羨望でも、嫉妬でも、怒りでもない。
ただ、自分はそこに入ることのない世界だという現実。
寝室の中では、二人の距離がゆっくりと縮まり、やがて言葉も少なくなる。
時折、妻の甘い声が漏れる。
妻「……もっと、そばに。」
夫「離さない。」
優しい低音が応える。
廊下で、佐川は床に膝をついたまま、視線を落とす。
雑巾を強く握りしめる指先が白くなる。
夜は深まり、都会の灯りがゆっくりと数を減らしていく。
それでも、寝室の扉は開かない。
佐川は命じられた通り、廊下の掃除を終え、静かに壁際に座る。
もし呼ばれればすぐに動けるように。
だが、呼び出しはなかった。
夜が明ける。
カーテンの隙間から薄い朝日が差し込む頃、ようやく寝室の中は静寂に包まれていた。
夫婦は朝まで出てこなかった。
佐川は立ち上がり、最後に床を拭く。
大理石は、完璧に磨き上げられている。
その上には、誰の足跡もない。
静かな朝。
夫婦の寝室の扉は、まだ閉じたままだった。




