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終わらぬ転落  作者: ありり
25/82

着用義務

朝6時。


まだ薄暗いタワマンの高層階に、静かな生活音だけが響いていた。

佐川はすでに起きていた。冷たい水で顔を洗い、ボタンをすべて留めたあの茶色のカーディガンを羽織り、玄関で妻を見送る準備をする。


妻「今日は帰宅時間がわからないわ。夕方になるかもしれないし、夜かもしれない」


赤みを帯びたワンピースに大粒のネックレスを揺らしながら、淡々と言った。


佐川「かしこまりました、奥様」


床に手をつき、深く頭を下げる佐川。

ヒールの音が遠ざかり、玄関ドアが閉まる。


静寂。


その瞬間、佐川はそっと自分の胸元を見下ろした。

何日も、何日も洗えていなかったカーディガン。毛羽立ち、袖口は擦り切れ、わずかに汗の匂いが染みついている。


——奥様の前では、必ず着用すること。


それが絶対の決まりだった。


だが今日は帰宅が不明。

昼を過ぎるかもしれない。


佐川「……今しか、ありません」


小さく呟き、佐川は自室の浴室へ向かった。


冷水に浸す。

指先で丁寧に押し洗いする。

茶色の水がゆらりと広がる。


このカーディガンは、かつて自分の屋敷で働いていた年配の使用人から譲られたものだった。


「奥様、お似合いになりますよ。普段着としてお使いください」


あの頃は、気まぐれに受け取っただけだった。

まさか、こんな形で“唯一の衣服”になるとは思わなかった。


絞る。

重い。

布が悲鳴を上げるように軋む。


バルコニーに干し、代わりにエプロンを着ける。

カーディガンなしの自分の姿は、どこかむき出しで、落ち着かない。


掃除を始める。

床を磨き、棚を拭き、窓を磨く。


——ほんの数時間の自由。


そう思った。


だが。


玄関の電子ロック音が、昼前に鳴り響いた。


佐川の心臓が止まりかける。


ヒールの音。


規則正しく、怒りを孕んだ速度で近づいてくる。


リビングに立ち尽くした佐川の視界に、この部屋の女王が現れた。


視線が、一瞬で佐川の胸元を捉える。


妻「……何それ」


低い声。


佐川は即座に床へ膝をつく。


佐川「お帰りなさいませ、奥様。本日はお早いご帰宅で——」


妻「それを聞いているのではないわ」


鋭い声が空気を裂く。


妻は佐川の顎を乱暴に掴み、持ち上げた。


妻「カーディガンは?」


息がかかる距離。

冷たい瞳。


佐川「……せ、洗濯を……」


その瞬間、妻の指がさらに強く食い込む。


妻「私の前で、あれを着ていない姿を晒すなんて……誰の許可を得たの?」


佐川「申し訳ございません……帰宅が夜かと……」


妻「言い訳するんじゃないわよ、ボロ雑巾!」


突き放され、佐川は床に崩れ落ちる。


妻はバルコニーへ向かう。

干されたカーディガンを乱暴に引き剥がす。


まだ湿っている布が揺れる。


リビングへ戻り、それを床へ叩きつける。


そして——


ヒールで踏みつけた。


ぐしゃり、と鈍い音。


妻「この服の意味、わかっているわよね?」


ぐり、と踵が押し込まれる。


妻「お前が何者かを、常に思い出させるための印よ」


踏みつけられた布に、湿り気と埃が混ざる。


佐川の喉が震える。


佐川「それは……以前、私に仕えていた使用人が……」


妻「だから何?」


奥様は笑った。冷たい笑み。


妻「元・奥様の成れの果てが、元・使用人のお下がりを着ている。これ以上お似合いの象徴がある?」


再び踏みつける。


妻「拾いなさい」


佐川は震える手でそれを抱き上げる。

湿り、皺だらけ、踵の跡がくっきりと残っている。


妻「今すぐ着なさい」


佐川「……まだ濡れております」


妻「だから?」


沈黙。


妻「私の前では、必ず着用する。それが約束でしょう?」


佐川は震えながら袖を通す。


冷たい布が肌に貼りつく。

湿気が背中に広がる。


この家の女王は見下ろす。


妻「今後は変更するわ」


冷たい宣告。


妻「しばらくは、寝る時も着用しなさい」


佐川の目がわずかに見開く。


佐川「夜もでしょうか?」


妻「当然でしょう。私が見ていなくても、身分を忘れないように」


ゆっくりと屈み込み、再び顎を持ち上げる。


妻「お前がそれを脱ぐのは、私が許した時だけよ」


佐川の視界が滲む。


カーディガンは、かつての自分の世界の残骸だった。

今は、首輪のような役目を果たしている。


妻「ありがたく思いなさい。脱ぐ自由を、私が管理してあげているのだから」


妻は立ち上がり、背を向ける。


妻「もう一度雑巾掛けを。濡れたままで構わないわ。床に水滴を落とさないように注意しなさい」


ヒールの音が遠ざかる。


冷たい布が肌に張りつき、体温を奪う。

踏み跡が胸元に残っている。


佐川はゆっくりと頭を下げた。


佐川「……かしこまりました、奥様」


濡れたカーディガンは重く、

まるで罪の重さのように身体にのしかかっていた。


かつて与える側だった自分。

今は、踏まれる側。


それを忘れないための衣服。


そして今日から、眠る時さえもそれを着続ける。


湿り気が乾く頃には、布はさらに硬くなるだろう。

踵の跡は、消えない。


まるで、今の自分の立場のように。

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