毛玉の証明
あれから数日が経った。佐川の生活はほとんど何も変わらない。
夜明け前に起き、掃除、靴磨きをし、家の主人を見送ったあとは、また掃除、外出時の付き添い.......命じられたことを淡々とこなす。
ただ一つだけ、明確に変わったことがある。
あの茶色のカーディガン。
毛玉は増え、袖口は擦り切れ、糸は垂れ下がり、色はくすみ、布地はくたびれている。
それを「毎日必ず着ること」と、義務として課されていた。
それは衣服ではなく、
身分を可視化するための印だった。
***
「……コンコン」
妻の私室の前。
妻「入りなさい」
静かな声。
佐川「失礼いたします」
扉を開けると、柔らかな灯りに満ちた優雅な空間。
深紅のドレスに身を包んだこの部屋の主人がソファに腰掛け、ティーカップを手にしている。
テーブルには整然と並ぶティーセットと焼き菓子。
佐川は数歩進み、直立する。
妻の視線が、ゆっくりと胸元へ落ちる。
妻「……そのカーディガン」
間。
妻「本当に汚らしいわね」
佐川「……申し訳ございません」
妻「毎日着ているのでしょう?」
佐川「はい」
妻「いつ洗ったの?」
わずかな沈黙。
佐川「……十日間、洗っておりません」
ティーカップが受け皿に戻される音が、やけに響く。
妻「十日間?」
佐川「……はい」
妻はゆっくり立ち上がり、佐川の前まで歩み寄る。
袖を指先でつまみ、毛玉をなぞる。
妻「なぜ洗わないの?」
冷たい視線。
佐川は目を伏せたまま答える。
佐川「……洗うことを、禁止されておりますので」
一瞬の静寂。
そして妻は、わざとらしく小さく笑った。
妻「ああ、そうだったわね」
肩をすくめる。
妻「私が言ったのだったわ」
袖を離し、ゆっくりと佐川を見上げる。
妻「ちゃんと覚えているのね。従順で結構」
佐川は頭を下げる。
佐川「……命じられた通りにしております」
妻「そう」
妻の視線が冷える。
妻「それでも十日間放置するなんて、本当にみじめ」
全身を眺める。
妻「かつては高価な布に包まれていた女が、今は毛玉だらけの安物を十日間着続ける」
吐き捨てるように。
妻「滑稽ね」
佐川の指先がわずかに震える。
佐川「……申し訳ございません」
妻「もう謝らなくていいわ」
妻はソファへ戻る。
妻「手洗いは許可する」
一瞬の沈黙。
佐川「……ありがとうございます」
妻「ただし」
その声が鋭く落ちる。
妻「今後も毎日、そのカーディガンを一日中着なさい」
佐川「……洗った日も、でございますか」
妻「当然でしょう」
即答。
妻「乾いていようが湿っていようが関係ない。あなたはそれを着て働くの」
妻は足を組み、冷ややかに見下ろす。
妻「お前が整う必要はないわ」
静かに、確実に。
妻「少しでもまともに見えると、不愉快なの」
空気が重く沈む。
妻「その服は、あなたの“現在地”」
毛玉、ほつれ、くすみ。
妻「どれも、今のあなたにぴったり」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……承知いたしました」
妻「いいわ」
間。
妻「下がっていいわ」
佐川「失礼いたします」
佐川は一礼し、扉へ向かう。
背中に、声が落ちる。
妻「佐川」
足が止まる。
佐川「……はい」
妻の声は穏やかだった。
妻「その雑巾のようなカーディガン」
間。
妻「とても似合っているわよ」
さらに一言。
妻「今のあなた、そのものね」
静寂。
佐川はゆっくりと頭を下げる。
佐川「……光栄でございます」
扉を開ける。
廊下の空気が頬を撫でる。
袖を握る。
ざらついた毛玉の感触。
かつては柔らかな布地に包まれていた指。
今は違う。
それでも背筋は、まっすぐ。
佐川は静かに歩き出す。
雑巾のようだと評されたカーディガンを、
今日も纏ったまま。




