妻の胸の内 〜防衛〜
——どうして、こんなにも苛立つのだろう。
リビングのソファに腰を下ろしながら、妻は自分の指先を見つめていた。
さきほど触れた、あの女の顎の感触が、まだ微かに残っている気がする。
汗まみれで上がってきた佐川の顔。
それはみじめで、疲れきっていて、確かに“落ちた女”の顔だった。
それなのに——
(……あの目)
疲労の奥に、消えていないものがあった。
誇り。
あるいは、諦めきれない何か。
それが、気に入らない。
かつて大富豪の妻だった女。
年上で、整った顔立ち。
もし着飾らせれば、自分よりも華やかに見えるかもしれない存在。
(私が若いから、勝っているだけ?)
その考えが、胸の奥をざらつかせる。
だからこそ、同じ服を着せ続ける。
毛玉のカーディガン。汗染み。みっともない姿。
「清潔である必要はないわ」
あの言葉は、佐川に向けたものでもあり、
自分自身への確認でもあった。
——あなたはもう、輝く側ではない。
そう言い聞かせなければ、落ち着かない。
階段を上らせたのも、理由がある。
エレベーターに一緒に乗る。
鏡張りの空間に並んで映る。
それが、嫌だった。
並びたくない。
同じ空間に、同じ高さで立ちたくない。
(私が上。あの女は下)
それを、はっきりさせなければ、不安になる。
——夫が、あの女に情を抱いたら?
その可能性を、完全に消しておきたい。
汗まみれのままにさせたのも、理由がある。
美しさを、徹底的に削ぐ。
清潔さを奪う。
余裕を奪う。
尊厳を奪う。
そうすれば、安心できる。
自分の居場所が揺らがない。
でも——
雑巾を絞る音が廊下から響く。
その音は、静かで、淡々としている。
泣き声ではない。
反抗でもない。
ただ、黙って従う音。
(……どうして、あんなに静かでいられるの)
壊れてほしい。
泣いてほしい。
取り乱してほしい。
そうすれば、もっと安心できるのに。
けれど佐川は、崩れない。
その静かな強さが、余計に胸をざわつかせる。
妻は、深く息を吐く。
——私は、勝っている。
若さも、夫の愛も、今この家の主である立場も。
それでも。
ほんのわずかな影が、胸の奥にある。
(あの女が、もし再び立ち上がったら?)
その可能性を、芽のうちに摘み取る。
だから冷たくする。
だから徹底する。
それは残酷ではなく、
“防衛”だと、自分に言い聞かせる。
ハンカチで指先をもう一度拭う。
「汚いものに触れた」
あの言葉は、半分は本心。
半分は、自分の優位を確かめるための呪文。
廊下から、水を拭き取る音が続く。
その音を聞きながら、妻は目を閉じる。
——私は、ここにいる。
この家の中心に。
その位置を、絶対に譲らない。




