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終わらぬ転落  作者: ありり
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元大富豪夫人•佐川

重い防火扉が軋む音を立てて閉まる。


階段を上りきった佐川は、呼吸を整える間もなく玄関前に立っていた。

両腕には、いまだ買い物袋。指先は赤く腫れ、関節は白く固まっている。茶色のカーディガンは背中まで汗を吸い、濃い色に変わっていた。


ドアが開く。


そこには、涼しい顔の妻。


妻「遅かったわね」


佐川「……申し訳、ございません。階段が多く......」


妻「言い訳?」


低い声。


佐川はすぐに首を振る。


佐川「……いいえ」


玄関に一歩入る。


その瞬間、奥様の指がまた、顎を掴んだ。


ぐい、と。


汗で湿った肌に、無遠慮に触れる。


佐川の顔が持ち上げられる。

息が荒い。頬は紅潮し、額には汗がにじんでいる。


妻はその顔をじっと見つめ、ふっと笑う。


妻「みっともない顔」


指先に汗が移る。


妻の眉がわずかに寄る。


妻「……はあ」


そのまま指を離し、露骨に顔をしかめる。


妻「最悪。触れてしまった」


ハンカチを取り出し、指先を強く拭う。


妻「汚いものに触れたみたい」


佐川の喉が、わずかに上下する。


佐川「……申し訳ございません」


妻「謝らなくていいわ。あなたが汚いのは事実だもの」


静かな玄関に、その言葉だけが落ちる。


妻は視線を袋へ向ける。


妻「何をぼさっとしているの?」


佐川「……荷物を」


妻「冷蔵庫へ。すぐに。順番も間違えないで。ワインはワインセラー。生鮮は一番上段。葉物は乾燥させないように」


佐川「……はい」


佐川は靴を揃え、袋を持ったままキッチンへ向かう。


汗が、ぽたりと床に落ちる。


妻「ちょっと」


奥様の声。


妻「その汗、落としたわね?」


佐川「……申し訳ございません」


妻「あとで全部拭きなさい。あなたが歩いた廊下、触れたドアノブ、階段の手すり。全部よ」


淡々と告げられる命令。


佐川「はい、奥様」


キッチンで袋を下ろす。

腕が震え、袋の紙が擦れる音が響く。


妻はゆっくりと後ろから近づく。


妻「それと」


佐川が振り向く。


妻「その服」


汗で張りついたカーディガン。


妻「着替えるつもり?」


一瞬、沈黙。


佐川「……お許しをいただけるのであれば」


妻「許さないわ」


即答。


妻「そのまま着ていなさい。汗臭いままで」


妻の視線が、上から下へとゆっくり滑る。


妻「不快であることを、自覚し続けなさい」


佐川は目を伏せる。


佐川「……はい」


妻「あなたは便利な道具。だけど、清潔である必要はないわ。どうせまた汚れるのだから」


冷蔵庫の扉が開く音。


妻「ほら、手が止まってる」


佐川「申し訳ございません」


妻「言葉じゃなく、動きなさい」


次々と食材を収めていく佐川の背中を、腕を組んで眺める。


妻「汗が落ちないように注意しなさい。もし庫内を汚したら、全部出して洗わせるから」


佐川「……はい、奥様」


冷蔵庫の扉が閉まる。


佐川「終わりました」


妻「じゃあ次は掃除」


佐川「……はい」


妻「あなたが今、歩いたルートを正確に思い出しなさい。玄関、廊下、キッチン。全部」


佐川「……承知しました」


妻「手すりも忘れないで。あなたの汗がついているでしょうから」


佐川は深く一礼する。


その額から、また汗が落ちる。


奥様は一歩下がる。


妻「距離を取りなさい。これ以上近づくと、また汚れる」


佐川は、静かに後退する。


佐川「……失礼いたします」


雑巾とバケツを取りに行く背中は、汗で重く、疲労でわずかに揺れている。


妻は玄関の鏡に映る自分を確認しながら、静かに呟く。


「本当に……元大富豪夫人? 笑わせるわ」


廊下に、水を絞る音が響く。


それは、階段の重みよりも重い音だった。

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