地獄の階段
タワーマンションのエントランスは、夜の光を受けて静かに輝いていた。
磨き上げられた大理石の床。高い天井。ガラス越しに見える街の灯り。
自動ドアが開き、妻が先に入る。
その後ろを、紙袋を両手いっぱいに抱えた使用人の佐川が続く。
袋は増えていた。
スーパーだけではない。ワインショップ、ブーランジェリー、デリカテッセン。
持ち手が指に食い込み、白い指先がわずかに震えている。
エレベーター前で、妻が足を止めた。
佐川は一瞬遅れて止まる。
その呼吸は浅く、肩がわずかに上下している。
妻「……疲れているの?」
低い声。
佐川は顔を上げる。
佐川「いえ……問題ございません、奥様」
その瞬間、奥様の指がまた、顎を捉えた。
ぐい、と持ち上げる。
無理やり視線を合わせさせる。
袋が揺れ、紙の擦れる音が静かなロビーに響く。
妻「その顔。嘘ね」
佐川の瞳の奥に、わずかな疲労がにじんでいる。
それを見つめながら、奥様は微笑む。
妻「買い物だけでこの程度? 元“大富豪夫人”だった方が?」
皮肉がゆっくりと落ちる。
佐川「……申し訳ございません」
妻「謝罪はいらないわ。結果だけ出しなさい」
顎を持ち上げたまま、奥様は指先でその肌を撫でるように押し上げる。
妻「こうして触れるとね」
ふっと、顔をしかめる。
妻「なんだか汚れた気がするの」
佐川の目が、一瞬だけ揺れた。
奥様は手を離し、バッグからハンカチを取り出す。
ゆっくりと、丁寧に、自分の指先を拭う。
まるで本当に汚物に触れたかのように。
妻「はあ……。あなたに触れると、いちいち手を洗わなければならないのね」
エレベーターが到着する音が鳴る。
扉が開く。
妻は一歩踏み出しかけ、そこで止まる。
振り返る。
妻「佐川」
佐川「……はい」
妻「あなたは階段で来なさい」
一瞬、時間が止まる。
佐川「……階段、でございますか」
妻「ええ。エレベーターは住人用よ。あなたは使用人」
冷たい視線。
妻「それとも、私と同じ空間に乗るつもり?」
佐川は首を横に振る。
佐川「……いいえ、奥様......」
「荷物は全部、お前が持って上がりなさい。」
奥様はエレベーターに乗り込む。
妻「汗をかいたら、廊下を汚さないように気をつけて。あなたの汗も、不快だから」
ドアが閉まり始める。
最後に見えたのは、鏡張りの内装に映る妻の整った横顔。
佐川は、袋を握り直す。
階段の表示灯へ向かう。
重い扉を押し開けると、無機質なコンクリートの空間が広がる。
一段目を踏み出す。
紙袋が揺れる。
息が、すでに重い。
荷物を抱えて這い上がる。
誰もいない階段に、足音だけが響く。
その音は、静かで、惨めで、
そして確かに現実だった。




