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終わらぬ転落  作者: ありり
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再会

青く澄んだ空の下、高層ビル群を背に、妻はゆったりと歩いていた。

右肩には黒いキルティングのバッグ。左手は空いている。歩幅も、視線も、余裕そのものだった。


その半歩後ろを、佐川がついていく。

両手いっぱいに、紙袋。高級スーパーのロゴがいくつも重なり、ビニールが指に食い込んで白くなっている。茶色のカーディガンは毛玉だらけ。黒いスカートはくたびれ、背筋だけがかろうじてまっすぐだ。


妻は振り返らない。


妻「落とさないでちょうだい。しっかり持ちなさい!」


佐川「……はい、奥様」


かつては――自分が選び、自分が会計をし、後ろに何人もの使用人を従えていた。

その記憶が、今はただの幻のように遠い。


角を曲がったその時だった。


老女「……奥様?」


かすれた声。

佐川の足が、わずかに止まる。


そこに立っていたのは、かつて自分に三十年以上仕えていた使用人だった。名前を呼びそうになり、佐川の唇が震える。


佐川「……あなた……」


老女「佐川様……? その、お姿は……」


妻がゆっくりと視線を向ける。

その視線は、冷たい。


妻「知り合い?」


佐川「……昔、私に仕えていた者です」


妻の口元が、わずかに歪む。


妻「まあ。ちょうどいいわ」


次の瞬間、妻の指が佐川の顎を掴む。


ぐい、と。


下から持ち上げる。

逃げ場のない角度で。


佐川の視線が、無理やり前を向かされる。

紙袋が揺れ、中の瓶がぶつかる音がした。


妻「ご覧ください。これが今の佐川です」


元使用人は、息を呑む。


妻は笑った。


妻「うちで働くメイド。年下の私にこき使われる、ただの使用人」


指先に、さらに力が込められる。


妻「ねえ、佐川?」


佐川「……はい、奥様」


妻「自己紹介なさい。今の“あなた”として」


ほんの一瞬。

喉が詰まる。


それでも、命令は絶対だ。


佐川「……私は現在……奥様にお仕えする、住み込みの使用人でございます」


静寂。


かつて“奥様”と呼ばれていた女が、自分で“使用人”と名乗る。


元使用人の目に、動揺が広がる。


老女「佐川様……どうして……」


佐川は、言いかける。


佐川「少し事情が――」


ぱしん、と。


顎を持ち上げる手が、さらに強くなる。


妻「余計な会話は必要ないわ!黙りなさい、佐川!」


奥様の声は低い。


妻「お前は説明する立場じゃない。ただ、命じられたことだけを話しなさい」


佐川「……申し訳、ございません」


紙袋がきしむ。

指先が震えている。


妻は、元使用人へ向き直る。


妻「佐川、昔は随分と偉そうだったそうですね。でも今は違うの。うちの雑用係。借金返済のために働いているの」


佐川の瞳が、わずかに揺れる。


妻は楽しむように続ける。


妻「高級スーパーで買い物をするのは私。荷物を持つのは彼女。立場は、はっきりしているでしょう?」


元使用人は、何も言えない。


佐川は、ほんの少しだけ目を伏せる。


妻の指が離れる。


妻「ほら、顔を下げなさい。あなたは誰よりも下なのだから」


佐川は、ゆっくりと視線を落とす。


佐川「……はい」


かつて自分の背後に控えていた女の前で。

今は自分が、紙袋を抱えた使用人。


妻は満足そうに踵を返す。


妻「行くわよ、佐川」


佐川「はい、奥様」


元使用人の視線を背中に受けながら、佐川は歩き出す。


その歩幅は小さい。

だが、決して乱れない。


紙袋の重みよりも、

視線の重みの方が、はるかに重かった。

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