テリトリー
午前四時五十分。
まだ夜の色が窓に残っている。
佐川はすでにリビングの床に膝をついていた。
冷えきった大理石に掌を押し当て、ゆっくりと雑巾を滑らせる。
往復。
また往復。
昨日磨いた床を、今日も磨く。
それが朝の始まり。
五時を少し過ぎたころ、寝室のドアが静かに開く。
佐川はすぐに頭を下げる。
佐川「おはようございます、奥様」
妻「手は止めないで」
佐川「はい」
妻はキッチンへ向かう。
エプロンをつけ、冷蔵庫を開ける音。
包丁が規則正しくまな板を打つ。
やがて寝室からこの家の主人の足跡。
夫「おはよう」
妻「おはようございます」
二人の声は柔らかい。
佐川は雑巾を桶に戻し、静かに玄関へ移動する。
靴箱を拭き、床を掃き、そして革靴を取り出す。
夫「佐川」
声がリビングから届く。
佐川「はい、旦那様」
夫「靴、磨いておけ」
佐川「承知いたしました」
佐川は黙々と磨く。
リビングからは、朝食を囲む二人の声が聞こえる。
妻「今日は少し暖かいわね」
夫「そうだな。昼はもっと上がるらしい」
グラスの触れ合う音。
小さな笑い。
あえて佐川を遠ざけられているのだろう。
二人の時間を、邪魔しないように。
いや、邪魔“させない”ように。
靴は鏡のように光る。
その光に、佐川の伏せた顔が歪んで映る。
やがて夫が立ち上がる。
夫「行ってくる」
妻「いってらっしゃい」
玄関へ。
佐川は即座に跪く。
佐川「いってらっしゃいませ、旦那様」
視線は向けられない。
夫の目は、妻だけを見ている。
ドアが閉まる。
静寂。
妻と佐川、二人きり。
空気が、わずかに変わる。
妻はリビングを見渡す。
その視線は、所有を確認するようだ。
「ここは私の場所」
言葉にせずとも、そう告げている。
妻は「佐川」
佐川「はい」
妻「今日、買い物に行くわ、ついてきなさい」
佐川「かしこまりました」
胸がわずかに締まる。
外出用の服。
自室へ戻る。
白いブラウス。
黒いスカート。
そして茶色のカーディガン。
毛玉が目立ち、糸がほつれている。
先日、“みすぼらしい”と言われたそれ。
他にない。
ボタンを留める指先が、少しだけ固い。
リビングへ戻る。
妻はバッグを持ち、立っている。
視線がゆっくりと佐川をなぞる。
沈黙。
妻「……それしかないの?」
佐川「申し訳ございません。他に持ち合わせがなく」
妻「外に出るのよ?」
佐川「承知しております」
妻は一歩近づく。
カーディガンの袖をつまむ。
妻「よくその姿で私の隣に立とうと思えるわね」
佐川「……ご迷惑をおかけいたします」
妻「迷惑以前の問題よ」
冷たい声。
妻「でも、まあいいわ」
ため息。
妻「仕方がない。許可する」
その言い方に、はっきりと上下がある。
妻「ただし」
佐川「はい」
妻「半歩後ろを歩きなさい」
佐川「承知いたしました」
妻「私より前に出ないこと」
佐川「はい」
妻「口を開かないこと」
佐川「はい」
妻「目立たないこと」
佐川「……はい、奥様」
妻はじっと見る。
妻「あなたは付き添いじゃない。荷物持ち」
佐川「承知しております」
妻「勘違いしないで」
佐川「はい」
玄関の鏡に二人が映る。
整ったこの家の奥様。
毛玉のカーディガンを着たこの家の使用人•佐川。
対照的な姿。
奥様は視線を外し、ドアを開ける。
妻「行くわよ」
佐川は半歩下がって続く。
朝の光が差し込む。
ルーチンは崩れない。
磨く。
拭く。
跪く。
そして、後ろを歩く。
妻はテリトリーは揺るがない。
佐川はその外側で、静かに歩き出した。




