居場所②
寿司職人が深く頭を下げ、玄関のドアが閉まる。
リビングには、まだ酢飯の香りと笑いの余韻が残っていた。
妻「本当に美味しかったわ」
妻が満足そうに息を吐く。
夫は頷き、箸を置いた。
夫「当たりだったな」
妻は柔らかく微笑み、夫の手にそっと触れる。
妻「ありがとう」
夫「その顔が見られれば十分だ」
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
佐川は廊下の陰で待機している。
やがて妻の声が落ちる。
妻「佐川」
佐川「はい、奥様」
すぐに現れ、跪く。
テーブルの上には、空になった皿、醤油皿、湯呑み。
妻「片付けなさい」
佐川「かしこまりました」
佐川は静かに皿を重ねる。
夫が立ち上がる。
夫「少し書斎に行く」
妻「はい」
妻は軽く微笑み、夫を見送る。
足音が遠ざかり、ドアが閉まる。
リビングには、二人きりの空気が落ちた。
さきほどまでの柔らかさは、もうない。
佐川は食器を運び終え、再びリビングへ戻る。
妻はソファに座り直し、腕を組んでいる。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「さっきの顔」
唐突に言う。
妻「羨ましそうだったわね」
佐川の動きがわずかに止まる。
佐川「そのようなことはございません」
妻「嘘」
短く切り捨てる。
妻「あなた、まだ“外側”を自覚しきれていないのね」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「申し訳ございません」
奥様は立ち上がる。
ヒールの音が近づく。
妻「片付けが終わったら、風呂場をもう一度確認しなさい」
佐川「はい」
妻「それから、あなたの洗濯物はどうするの?」
佐川は一瞬だけ迷い、口を開く。
佐川「……お伺いしたいことがございます」
妻「何?」
佐川「私の洗濯物は、どのように扱えばよろしいでしょうか」
妻の目が細くなる。
妻「どういう意味?」
佐川「使用する場所を……」
妻「まさか」
妻は一歩近づく。
妻「主人と同じ洗濯機を使えると思ったの?」
声は低く、冷たい。
佐川は即座に首を振る。
佐川「そのようなつもりでは」
妻「では、何を聞きたいの」
佐川「手順をお教えいただければと」
妻は鼻で笑う。
妻「あなたのものは手洗いしなさい」
佐川「……承知いたしました」
妻「部屋はユニットバスなんだから。自分の部屋で洗って干しなさい」
佐川「はい」
妻「使用人が主人と同じ洗濯機を回すなんて、考えただけで不快よ」
その言葉が、静かに刺さる。
佐川は視線を落としたまま答える。
佐川「以後、気をつけます」
妻「“以後”ではなく、“当然”よ」
沈黙。
妻は腕を組み直す。
さきほどまでの機嫌の良さは消えている。
妻「今日一日、少しはわかったでしょう」
佐川「何を、でございましょうか」
妻「あなたの立場」
淡々と。
妻「値段がつかないものと同じ位置よ」
佐川は静かに頭を下げる。
佐川「承知しております」
妻はその姿を見下ろす。
妻「なら、余計な感情は持たないこと」
佐川「はい」
妻「羨望も、期待も、必要ない」
佐川「……はい」
妻は踵を返す。
妻「片付けを終えたら、廊下も拭いておきなさい」
佐川「かしこまりました」
リビングに残された佐川は、再び膝をつく。
雑巾を握る。
先ほどまで夫婦が座っていた場所。
笑い声が響いていた場所。
いまは静かだ。
水を絞り、床に当てる。
冷たい感触が手に伝わる。
洗濯は手洗い。
浴室の隅で。
洗濯機には触れない。
それが自分の位置。
佐川は淡々と拭き続ける。
笑い声はもうない。
あるのは、静かな現実だけだった。




