表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
18/85

居場所②

寿司職人が深く頭を下げ、玄関のドアが閉まる。


リビングには、まだ酢飯の香りと笑いの余韻が残っていた。


妻「本当に美味しかったわ」


妻が満足そうに息を吐く。


夫は頷き、箸を置いた。


夫「当たりだったな」


妻は柔らかく微笑み、夫の手にそっと触れる。


妻「ありがとう」


夫「その顔が見られれば十分だ」


二人の間に、穏やかな空気が流れる。


佐川は廊下の陰で待機している。


やがて妻の声が落ちる。


妻「佐川」


佐川「はい、奥様」


すぐに現れ、跪く。


テーブルの上には、空になった皿、醤油皿、湯呑み。


妻「片付けなさい」


佐川「かしこまりました」


佐川は静かに皿を重ねる。


夫が立ち上がる。


夫「少し書斎に行く」


妻「はい」


妻は軽く微笑み、夫を見送る。


足音が遠ざかり、ドアが閉まる。


リビングには、二人きりの空気が落ちた。


さきほどまでの柔らかさは、もうない。


佐川は食器を運び終え、再びリビングへ戻る。


妻はソファに座り直し、腕を組んでいる。


妻「佐川」


佐川「はい」


妻「さっきの顔」


唐突に言う。


妻「羨ましそうだったわね」


佐川の動きがわずかに止まる。


佐川「そのようなことはございません」


妻「嘘」


短く切り捨てる。


妻「あなた、まだ“外側”を自覚しきれていないのね」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「申し訳ございません」


奥様は立ち上がる。


ヒールの音が近づく。


妻「片付けが終わったら、風呂場をもう一度確認しなさい」


佐川「はい」


妻「それから、あなたの洗濯物はどうするの?」


佐川は一瞬だけ迷い、口を開く。


佐川「……お伺いしたいことがございます」


妻「何?」


佐川「私の洗濯物は、どのように扱えばよろしいでしょうか」


妻の目が細くなる。


妻「どういう意味?」


佐川「使用する場所を……」


妻「まさか」


妻は一歩近づく。


妻「主人と同じ洗濯機を使えると思ったの?」


声は低く、冷たい。


佐川は即座に首を振る。


佐川「そのようなつもりでは」


妻「では、何を聞きたいの」


佐川「手順をお教えいただければと」


妻は鼻で笑う。


妻「あなたのものは手洗いしなさい」


佐川「……承知いたしました」


妻「部屋はユニットバスなんだから。自分の部屋で洗って干しなさい」


佐川「はい」


妻「使用人が主人と同じ洗濯機を回すなんて、考えただけで不快よ」


その言葉が、静かに刺さる。


佐川は視線を落としたまま答える。


佐川「以後、気をつけます」


妻「“以後”ではなく、“当然”よ」


沈黙。


妻は腕を組み直す。


さきほどまでの機嫌の良さは消えている。


妻「今日一日、少しはわかったでしょう」


佐川「何を、でございましょうか」


妻「あなたの立場」


淡々と。


妻「値段がつかないものと同じ位置よ」


佐川は静かに頭を下げる。


佐川「承知しております」


妻はその姿を見下ろす。


妻「なら、余計な感情は持たないこと」


佐川「はい」


妻「羨望も、期待も、必要ない」


佐川「……はい」


妻は踵を返す。


妻「片付けを終えたら、廊下も拭いておきなさい」


佐川「かしこまりました」


リビングに残された佐川は、再び膝をつく。


雑巾を握る。


先ほどまで夫婦が座っていた場所。


笑い声が響いていた場所。


いまは静かだ。


水を絞り、床に当てる。


冷たい感触が手に伝わる。


洗濯は手洗い。


浴室の隅で。


洗濯機には触れない。


それが自分の位置。


佐川は淡々と拭き続ける。


笑い声はもうない。


あるのは、静かな現実だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ