居場所①
夕方の光が少しずつ薄れていくころ、リビングの空気もどこか弾んでいた。
時計はまもなく18時。
夫はソファに腰掛け、リラックス。
妻はクッションを整え、テーブルの上をもう一度拭き直している。
その少し離れた場所で、佐川は膝をつき、最後の雑巾掛けをしていた。
夫「佐川」
佐川「はい、旦那様」
夫「食事中は、ここにいなくていい」
一瞬の間。
夫「他の部屋の掃除をしておけ。風呂の準備も。
とにかく、目に触れないところに行け」
淡々とした口調。
妻が横目で夫を見る。
その意図は、分かる。
佐川は深く頭を下げる。
佐川「承知いたしました」
夫は続ける。
夫「寿司屋が来たら出ろ。案内したらすぐに下がれ」
佐川「はい」
夫「無駄に音を立てるな」
佐川「承知いたしました、旦那様」
妻が微笑む。
妻「気が利くのね」
夫は肩をすくめる。
夫「せっかくの時間だからな」
二人の視線が重なる。
その空気は柔らかい。
佐川は雑巾を握りしめたまま、視線を落とす。
なぜ、この二人はこれほど自然なのだろう。
無理をしているようには見えない。
どちらかが支配しているようにも見えない。
言葉が少なくても、通じている。
元夫との時間を思い出す。
笑顔はあった。
会話もあった。
だが、どこかに“緊張”があった。
成功を守るための会話。
体裁を保つための笑い。
この二人には、それがない。
ただ、並んでいる。
それが羨ましいと、ほんの一瞬思う。
その感情を、すぐに押し殺す。
自分は外側。
羨望は無意味。
そのとき――
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
妻が顔を上げる。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「出なさい」
佐川は立ち上がり、玄関へ向かう。
ドアを開けると、寿司屋の職人が丁寧に頭を下げる。
佐川「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
佐川は一歩下がり、案内する。
リビングに入ると、夫が立ち上がる。
夫「どうも」
妻もにこやかに応じる。
佐川は職人の後ろに立ち、トレイを受け取り、テーブルへ並べる。
新鮮な香りが広がる。
彩り豊かな握り。
丁寧な仕事。
妻が嬉しそうに言う。
妻「素敵」
夫が笑う。
夫「楽しみだな」
佐川は最後の皿を置き、すぐに一歩下がる。
佐川「他にご用命はございますか」
妻はちらりと見る。
妻「もういいわ、下がりなさい」
夫が付け加える。
夫「言った通りだ。風呂を頼む」
佐川「かしこまりました」
佐川は深く一礼し、リビングを出る。
ドアの向こうで、二人の声が重なる。
夫「乾杯しようか」
妻「ええ」
グラスが触れ合う音。
笑い声。
廊下に立ち尽くしながら、佐川はわずかに目を閉じる。
羨ましい。
そう思う自分が、まだいる。
だが同時に理解する。
あの円の中に、自分の居場所はない。
自分の役目は、外側で整えること。
風呂の湯を張り、廊下を拭き、音を消す。
存在を薄めること。
浴室で蛇口をひねりながら、リビングから漏れる笑い声を聞く。
温かな空気と、湯気。
胸の奥に残るのは、静かな空洞。
それでも、手は止めない。
湯が溜まる音を聞きながら、
佐川は自分の役目を、淡々と続けた。




