表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
17/101

居場所①

夕方の光が少しずつ薄れていくころ、リビングの空気もどこか弾んでいた。


時計はまもなく18時。


夫はソファに腰掛け、リラックス。

妻はクッションを整え、テーブルの上をもう一度拭き直している。


その少し離れた場所で、佐川は膝をつき、最後の雑巾掛けをしていた。


夫「佐川」


佐川「はい、旦那様」


夫「食事中は、ここにいなくていい」


一瞬の間。


夫「他の部屋の掃除をしておけ。風呂の準備も。

とにかく、目に触れないところに行け」


淡々とした口調。


妻が横目で夫を見る。


その意図は、分かる。


佐川は深く頭を下げる。


佐川「承知いたしました」


夫は続ける。


夫「寿司屋が来たら出ろ。案内したらすぐに下がれ」


佐川「はい」


夫「無駄に音を立てるな」


佐川「承知いたしました、旦那様」


妻が微笑む。


妻「気が利くのね」


夫は肩をすくめる。


夫「せっかくの時間だからな」


二人の視線が重なる。


その空気は柔らかい。


佐川は雑巾を握りしめたまま、視線を落とす。


なぜ、この二人はこれほど自然なのだろう。


無理をしているようには見えない。

どちらかが支配しているようにも見えない。


言葉が少なくても、通じている。


元夫との時間を思い出す。


笑顔はあった。

会話もあった。


だが、どこかに“緊張”があった。


成功を守るための会話。

体裁を保つための笑い。


この二人には、それがない。


ただ、並んでいる。


それが羨ましいと、ほんの一瞬思う。


その感情を、すぐに押し殺す。


自分は外側。


羨望は無意味。


そのとき――


ピンポーン。


インターホンが鳴る。


妻が顔を上げる。


妻「佐川」


佐川「はい」


妻「出なさい」


佐川は立ち上がり、玄関へ向かう。


ドアを開けると、寿司屋の職人が丁寧に頭を下げる。


佐川「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


佐川は一歩下がり、案内する。


リビングに入ると、夫が立ち上がる。


夫「どうも」


妻もにこやかに応じる。


佐川は職人の後ろに立ち、トレイを受け取り、テーブルへ並べる。


新鮮な香りが広がる。


彩り豊かな握り。


丁寧な仕事。


妻が嬉しそうに言う。


妻「素敵」


夫が笑う。


夫「楽しみだな」


佐川は最後の皿を置き、すぐに一歩下がる。


佐川「他にご用命はございますか」


妻はちらりと見る。


妻「もういいわ、下がりなさい」


夫が付け加える。


夫「言った通りだ。風呂を頼む」


佐川「かしこまりました」


佐川は深く一礼し、リビングを出る。


ドアの向こうで、二人の声が重なる。


夫「乾杯しようか」

妻「ええ」


グラスが触れ合う音。


笑い声。


廊下に立ち尽くしながら、佐川はわずかに目を閉じる。


羨ましい。


そう思う自分が、まだいる。


だが同時に理解する。


あの円の中に、自分の居場所はない。


自分の役目は、外側で整えること。


風呂の湯を張り、廊下を拭き、音を消す。


存在を薄めること。


浴室で蛇口をひねりながら、リビングから漏れる笑い声を聞く。


温かな空気と、湯気。


胸の奥に残るのは、静かな空洞。


それでも、手は止めない。


湯が溜まる音を聞きながら、

佐川は自分の役目を、淡々と続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ