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終わらぬ転落  作者: ありり
16/82

価値と価格

ロビーに降りたとき、妻はすでに腕を組んで立っていた。


磨き上げられた大理石の床の中央。

微動だにせず、佐川を待っている。


妻「……遅いわね」


低く、静かに。


佐川は半歩手前で立ち止まり、頭を下げる。


佐川「申し訳ございません」


妻「主人を待たせるなんて、どういう神経をしているの?」


佐川「……申し訳ございません、奥様」


妻「階段を使えと言っただけよ。迷子にでもなったの?」


佐川「いいえ」


妻は視線を上下に滑らせる。


妻「その格好で息を切らしているのも、みっともないわ」


佐川は何も言わない。


妻は「後ろに」


一言。


佐川はすぐに半歩下がる。


ロビーを出て、歩き出す。

妻のヒールの音が規則的に響く。


佐川はその後ろを、一定の距離を保って歩く。


通りすがる人の視線が、二人を一瞬だけ追う。


妻は堂々と。

佐川は影のように。



近くの質店は、静かな路地にあった。


妻が先に入り、佐川が続く。


妻「査定をお願いするわ」


奥様はバッグから小さなケースを取り出し、カウンターに並べる。


ブレスレット。

イヤリング。

指輪。

そして、最後にネックレス。


店主は慣れた手つきで一つずつ確認していく。


質店「こちらのブレスレットは……八万円ほど」


質店「イヤリングは六万円ほどですね」


質店「指輪は……十万円前後になります」


妻は軽く頷く。


妻「そう」


淡々としている。


佐川は目を伏せたまま、その数字を聞く。


かつて“価値”として身につけていたものが、

いまは“価格”になる。


そして最後に、ネックレス。


店主の動きが、わずかに鈍る。


ルーペを当て、裏を確認し、少しだけ眉を寄せる。


質屋「……こちらですが」


言いにくそうに顔を上げる。


質店「申し訳ありません。お買い取りするとしても……五十円程度にしかなりません」


空気が、止まる。


五十円。


妻が、ゆっくりと佐川を見る。


妻「……五十円?」


質店「はい。素材としても価値が低く……ブランド品ではございませんので」


奥様は微笑む。


その笑みは、柔らかいが冷たい。


妻「愛する妻への贈り物にしては、随分と安いのね」


佐川の指先が、わずかに震える。


妻「あなた、これを“残したい”とあんなに懇願していたわよね」


佐川「……はい」


妻「愉快な男ね。あなたの元夫」


その言葉が、静かに落ちる。


妻「成功の証、でしたっけ?」


佐川は、何も言わない。


奥様はネックレスをつまみ上げる。


光にかざす。


「五十円」


その数字を、ゆっくり繰り返す。


妻「あなたの思い出の値段が、それ」


沈黙。


店主が気まずそうに視線を逸らす。


奥様は、ふっと息を吐き、ネックレスをケースに戻す。


妻「これは持ち帰るわ」


質店「よろしいのですか?」


妻「ええ」


佐川に視線を向ける。


妻「五十円では、さすがに可哀想でしょう?」


その言い方に、わずかな含み。


妻「他は全部、お願い」


ブレスレット。

イヤリング。

指輪。


金額が提示され、書類にサインが入る。


かつての象徴が、紙幣に変わる。


佐川は立ったまま、それを見ている。



店を出る。


通りの光がまぶしい。


奥様は歩きながら言う。


妻「感想は?」


佐川は一瞬、間を置く。


佐川「……思っていたより、値がつきました」


妻「そうね。お前の借金も減るわね。ネックレスは?」


沈黙。


佐川「……受け止めました」


奥様は足を止め、振り返る。


妻「何を?」


佐川「……現実を」


奥様はわずかに目を細める。


妻「あなたの過去は、五十円の装飾品だったの」


言葉は静かだが、鋭い。


妻「それでもまだ、手元に残したいの?」


佐川は、低く答える。


佐川「……はい」


奥様は小さく笑う。


妻「強情ね」


再び歩き出す。


妻「まあいいわ。

持っていれば、あなたの目印になるでしょう」


半歩後ろを歩きながら、佐川は胸の奥を押さえる。


五十円。


その数字は確かに刺さった。


だが、完全には崩れない。


値がつかなかったのは、物だけだ。


歩き続ける自分は、まだここにいる。


妻の後ろ姿を見つめながら、

佐川は静かに息を整えた。


屈辱は、消えない。


だが、それでも――


歩みは止まらなかった。


マンションに戻ると、妻は先に玄関を抜け、迷いなくリビングへ向かった。


佐川は半歩下がって続く。


リビングのテーブルには、帰りに買った弁当が二つ並んでいる。

整った容器。彩りの良い中身。


妻はすでに蓋を開け、箸を手にしていた。


妻「あなたの分もあるわ」


視線を向けないまま言う。


佐川は小さく頭を下げる。


佐川「ありがとうございます、奥様」


妻はひと口食べ、静かに微笑む。


その機嫌の良さは、明らかだった。


妻「今日はいい買い物だったわ」


さらりと言う。


佐川は何も答えない。


妻「ブレスレットも指輪も、思っていたより高かった」


箸を動かしながら続ける。


妻「でも一番面白かったのは、あれね」


沈黙。


妻「五十円」


数字を口にする。


妻「愛する妻への贈り物が、五十円」


くすりと笑う。


妻「想像以上に愉快だったわ」


佐川の指先がわずかに動く。


奥様はちらりと視線を向ける。


妻「あなたの分、部屋で食べなさい」


佐川「……はい」


妻「ここでは食べないで」


淡々と。


妻「食卓は家族のものよ」


佐川は弁当を両手で持つ。


妻「自室で召し上がれ......ははは!」


妻は思い出し笑いが止まらない。


佐川「承知いたしました」


自室に戻る。


扉を閉めると、静寂が落ちる。


カーディガンを脱ぐ。


毛玉のついた布を丁寧に畳む。


白いブラウスの袖を整え、エプロンを身につける。


紐を後ろで結ぶと、現実に戻る感覚がする。


床に座り、弁当の蓋を開ける。


匂いは美味しそうだ。


だが味は、よく分からない。


五十円。


その数字が、何度も浮かぶ。


箸を早く動かす。


ゆっくり食べる資格はない。


食べ終え、容器をまとめる。


手早く立ち上がる。


エプロンを整え、廊下へ出る。


リビングへ向かう。


妻はソファに腰かけ、スマートフォンを見ている。


テーブルの弁当はすでに片付けられていた。


佐川「食べ終わりました」


佐川は深く頭を下げる。


奥様は視線を上げる。


妻「そう」


佐川「お待たせいたしました」


妻「別に待っていないわ」


冷たい一言。


佐川は沈黙する。


奥様はゆっくりと立ち上がる。


妻「あなた、今日はいい勉強になったでしょう?」


佐川「……はい」


妻「思い出は値段になる」


一歩近づく。


妻「でも価値と価格は違う」


視線が鋭い。


妻「あなたが守りたがっていたあれは、価格すらなかった」


静かに刺す。


妻「それでも持ち帰ったのは、私の気まぐれよ」


佐川はうなずく。


佐川「感謝しております、ありがとうございます」


妻「そう、ならこれからも笑いのネタにしてあげる」


妻はソファに座り直す。


妻「では、片付けと掃除を続けなさい」


佐川「はい」


妻「今日は機嫌がいいの」


柔らかく笑う。


妻「余計なことを言わなければ、怒らないわ」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「承知いたしました」


再び床に膝をつく。


雑巾を握る。


冷たい床の感触。


五十円。


その数字は消えない。


だが、手は止めない。


奥様の足元を、丁寧に拭いていく。


静かな午後の光が、二人の間に落ちていた。



玄関のドアが開く音がした瞬間、奥様はぱっと顔を上げた。


妻「おかえりなさい」


声が明るい。

ほんの少し弾んでいる。


佐川は反射的に廊下へ出て、すぐに跪く。


佐川「おかえりなさいませ、旦那様」


だが旦那様の視線は、まっすぐ奥様に向いている。


夫「ただいま」


その声は柔らかい。


奥様が近づき、コートを受け取る。

自然な距離。自然な笑み。


佐川の存在は、背景に溶けている。


夫はちらりとも見ない。


妻は嬉しそうに言う。


妻「今日は早いのね」


夫「思ったより早く片付いた。寿司は18時だろ? まだ時間があるな」


靴を脱ぎながら続ける。


夫「少しのんびりしようかな」


妻「そうね」


奥様は微笑み、キッチンへ向かう。


佐川はその場で頭を下げたまま、動かない。


妻「佐川」


奥様の声。


妻「リビングの床、もう一度きれいにしておいて」


佐川「はい」


佐川は立ち上がり、雑巾を手に戻る。


リビングへ。


夫婦がソファに並んで座る。


佐川はその少し離れた位置で膝をつき、床を拭き始める。


視界の端に、二人の足元が見える。


妻がトレイを持って戻る。


グラスに冷えた飲み物。

氷の音が静かに鳴る。


妻「どうぞ」


夫が受け取る。


夫「ありがとう」


そのやり取りが、柔らかい。


佐川は視線を落とし、黙々と床を拭く。


妻が言う。


妻「今日ね、質屋に行ってきたの」


夫「例の?」


妻「ええ。あなたが許してくれたでしょう」


夫はグラスを傾ける。


夫「どうだった?」


妻が楽しげに笑う。


妻「面白かったわよ」


夫「へえ?」


妻「ねえ、クイズにしましょうか」


夫が少し身を乗り出す。


夫「何の?」


妻「ネックレスの値段」


佐川の手が、ほんの一瞬止まる。


奥様は続ける。


妻「あなた、いくらだったと思う?」


旦那様は考えるように眉を寄せる。


夫「ネックレス? 元夫からのだろ」


妻「そう」


夫「うーん……十万くらい?」


妻「残念」


夫「じゃあ一万?」


妻はにやりと笑う。


妻「どれも外れ」


俺「そんなに安いのか?」


夫が興味深そうに聞く。


妻はゆっくりと、言葉を区切る。


妻「正解は――五十円」


一瞬の静寂。


そして。


夫の口元が緩む。


夫「は?」


次の瞬間、声をあげて笑った。


俺「五十円?」


肩を震わせる。


夫「本当に?」


妻「ええ」


妻も笑う。


妻「素材としても価値がないんですって」


夫は声を抑えきれない。


夫「成功の証じゃなかったのか?」


再び笑いがこぼれる。


夫「五十円はさすがに予想外だ」


普段は落ち着いてクールな夫が、腹を抱えるように笑う。


妻もつられて笑う。


リビングに、明るい笑い声が響く。


床に膝をついたまま、佐川は雑巾を強く握る。


五十円。


その数字が、再び胸を刺す。


だが顔は上げない。


笑い声が続く。


夫が言う。


夫「ある意味、才能だな」


妻が答える。


妻「愉快な男よね」


二人の笑いが重なる。


佐川は、静かに床を拭き続ける。


夫の足元。

妻の足元。


光を映す大理石。


雑巾が通るたび、床はさらに光る。


笑い声がようやく落ち着く。


夫がまだ口元を押さえている。


「五十円……」


小さく呟き、また肩を揺らす。


妻は満足そうにグラスを傾ける。


妻「持ち帰ったわよ。あまりにも可哀想だから」


皮肉が混じる。


佐川は何も言わない。


拭き終えた床に、自分の影が映る。


笑い声の余韻の中、

佐川は静かに立ち上がり、雑巾を絞る。


リビングには、まだ二人の楽しげな空気が残っている。


その中心にいるのは、妻。


その隣で笑っているのは、夫。


そしてその外側で、佐川は淡々と役目を続けていた。



リビングの笑いがようやく落ち着いたころ。


妻「佐川」


妻の声が、空気を切る。


キッチンへ向かいかけていた佐川は、すぐに足を止める。


佐川「はい、奥様」


妻「こちらへ来なさい」


ソファの前まで歩き、静かに跪く。


夫はまだ余韻で口元を緩めている。


妻はゆっくりと足を組み替え、佐川を見下ろした。


妻「感想を聞かせて」


佐川の視線は床に落ちたまま。


佐川「……どの点についてでございましょうか」


妻「五十円」


淡々と。


妻「予想より高かった? それとも低かった?」


沈黙が落ちる。


佐川は一瞬だけ、呼吸を整える。


佐川「……予想よりも、値段がつかなかったと存じます」


妻の唇がわずかに動く。


妻「そう」


佐川「ですが」


小さく続ける。


佐川「価格がすべてではないとも、存じます」


その言葉に、俺が少し眉を上げる。


妻は目を細める。


妻「まだそんなことを言うの?」


佐川「申し訳ございません」


妻「あなた、あれを手元に残したいと懇願していたわよね」


佐川「はい」


妻「その“価値”が五十円だったのよ?」


佐川は、わずかに視線を上げる。


佐川「承知しております」


妻「それでも?」


佐川「……はい」


奥様はしばらく黙って佐川を見る。


妻「面白いわね」


静かに言う。


妻「あなたの過去は五十円。でもあなたは、それを守ろうとする」


夫が軽く口を挟む。


夫「まあ、思い出は値段じゃないんだろう」


妻はちらりと夫を見るが、すぐに視線を戻す。


妻「お前は、値段がつかなかったことをどう思う?」


佐川は答える。


佐川「……現実を知ることができたと、存じます」


妻「傷ついた?」


一拍。


妻「はい」


正直な返答。


その静かな認め方に、奥様はわずかに目を細める。


妻「強がらないのね」


佐川「強がる意味がございません」


夫が小さく息を吐く。


妻はソファに背を預ける。


妻「あなたの元夫、随分と安上がりな愛だったのね」


佐川はゆっくりと言う。


佐川「……当時は、それが全てでございました」


妻「いまは?」


佐川「いまは……五十円でございます」


静寂。


奥様の口元が、わずかに上がる。


妻「自覚があるなら、結構」


佐川「はい」


妻「では、その現実を忘れないことね」


佐川「承知いたしました」


夫はグラスを傾けながら言う。


夫「まあ、笑える話にはなったな」


その言葉に、佐川は頭を下げる。


佐川「お二人が笑ってくださるのであれば、幸いでございます」


奥様が低く言う。


妻「無駄口叩くんじゃないわよ、使用人の分際で。

あなたの役割はそこまでよ」


佐川「申し訳ございません」


妻「もういいわ。掃除を続けなさい」


佐川は深く一礼し、立ち上がる。


再び床に膝をつき、雑巾を握る。


五十円。


その数字は胸に残る。


だが、先ほどとは少しだけ違う。


値がつかなかったことは事実。


それでも、まだ残っている。


価格とは別のものが。


リビングには再び静かな空気が戻り、

佐川は淡々と床を磨き続けた。

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