価値と価格
ロビーに降りたとき、妻はすでに腕を組んで立っていた。
磨き上げられた大理石の床の中央。
微動だにせず、佐川を待っている。
妻「……遅いわね」
低く、静かに。
佐川は半歩手前で立ち止まり、頭を下げる。
佐川「申し訳ございません」
妻「主人を待たせるなんて、どういう神経をしているの?」
佐川「……申し訳ございません、奥様」
妻「階段を使えと言っただけよ。迷子にでもなったの?」
佐川「いいえ」
妻は視線を上下に滑らせる。
妻「その格好で息を切らしているのも、みっともないわ」
佐川は何も言わない。
妻は「後ろに」
一言。
佐川はすぐに半歩下がる。
ロビーを出て、歩き出す。
妻のヒールの音が規則的に響く。
佐川はその後ろを、一定の距離を保って歩く。
通りすがる人の視線が、二人を一瞬だけ追う。
妻は堂々と。
佐川は影のように。
⸻
近くの質店は、静かな路地にあった。
妻が先に入り、佐川が続く。
妻「査定をお願いするわ」
奥様はバッグから小さなケースを取り出し、カウンターに並べる。
ブレスレット。
イヤリング。
指輪。
そして、最後にネックレス。
店主は慣れた手つきで一つずつ確認していく。
質店「こちらのブレスレットは……八万円ほど」
質店「イヤリングは六万円ほどですね」
質店「指輪は……十万円前後になります」
妻は軽く頷く。
妻「そう」
淡々としている。
佐川は目を伏せたまま、その数字を聞く。
かつて“価値”として身につけていたものが、
いまは“価格”になる。
そして最後に、ネックレス。
店主の動きが、わずかに鈍る。
ルーペを当て、裏を確認し、少しだけ眉を寄せる。
質屋「……こちらですが」
言いにくそうに顔を上げる。
質店「申し訳ありません。お買い取りするとしても……五十円程度にしかなりません」
空気が、止まる。
五十円。
妻が、ゆっくりと佐川を見る。
妻「……五十円?」
質店「はい。素材としても価値が低く……ブランド品ではございませんので」
奥様は微笑む。
その笑みは、柔らかいが冷たい。
妻「愛する妻への贈り物にしては、随分と安いのね」
佐川の指先が、わずかに震える。
妻「あなた、これを“残したい”とあんなに懇願していたわよね」
佐川「……はい」
妻「愉快な男ね。あなたの元夫」
その言葉が、静かに落ちる。
妻「成功の証、でしたっけ?」
佐川は、何も言わない。
奥様はネックレスをつまみ上げる。
光にかざす。
「五十円」
その数字を、ゆっくり繰り返す。
妻「あなたの思い出の値段が、それ」
沈黙。
店主が気まずそうに視線を逸らす。
奥様は、ふっと息を吐き、ネックレスをケースに戻す。
妻「これは持ち帰るわ」
質店「よろしいのですか?」
妻「ええ」
佐川に視線を向ける。
妻「五十円では、さすがに可哀想でしょう?」
その言い方に、わずかな含み。
妻「他は全部、お願い」
ブレスレット。
イヤリング。
指輪。
金額が提示され、書類にサインが入る。
かつての象徴が、紙幣に変わる。
佐川は立ったまま、それを見ている。
⸻
店を出る。
通りの光がまぶしい。
奥様は歩きながら言う。
妻「感想は?」
佐川は一瞬、間を置く。
佐川「……思っていたより、値がつきました」
妻「そうね。お前の借金も減るわね。ネックレスは?」
沈黙。
佐川「……受け止めました」
奥様は足を止め、振り返る。
妻「何を?」
佐川「……現実を」
奥様はわずかに目を細める。
妻「あなたの過去は、五十円の装飾品だったの」
言葉は静かだが、鋭い。
妻「それでもまだ、手元に残したいの?」
佐川は、低く答える。
佐川「……はい」
奥様は小さく笑う。
妻「強情ね」
再び歩き出す。
妻「まあいいわ。
持っていれば、あなたの目印になるでしょう」
半歩後ろを歩きながら、佐川は胸の奥を押さえる。
五十円。
その数字は確かに刺さった。
だが、完全には崩れない。
値がつかなかったのは、物だけだ。
歩き続ける自分は、まだここにいる。
妻の後ろ姿を見つめながら、
佐川は静かに息を整えた。
屈辱は、消えない。
だが、それでも――
歩みは止まらなかった。
⸻
マンションに戻ると、妻は先に玄関を抜け、迷いなくリビングへ向かった。
佐川は半歩下がって続く。
リビングのテーブルには、帰りに買った弁当が二つ並んでいる。
整った容器。彩りの良い中身。
妻はすでに蓋を開け、箸を手にしていた。
妻「あなたの分もあるわ」
視線を向けないまま言う。
佐川は小さく頭を下げる。
佐川「ありがとうございます、奥様」
妻はひと口食べ、静かに微笑む。
その機嫌の良さは、明らかだった。
妻「今日はいい買い物だったわ」
さらりと言う。
佐川は何も答えない。
妻「ブレスレットも指輪も、思っていたより高かった」
箸を動かしながら続ける。
妻「でも一番面白かったのは、あれね」
沈黙。
妻「五十円」
数字を口にする。
妻「愛する妻への贈り物が、五十円」
くすりと笑う。
妻「想像以上に愉快だったわ」
佐川の指先がわずかに動く。
奥様はちらりと視線を向ける。
妻「あなたの分、部屋で食べなさい」
佐川「……はい」
妻「ここでは食べないで」
淡々と。
妻「食卓は家族のものよ」
佐川は弁当を両手で持つ。
妻「自室で召し上がれ......ははは!」
妻は思い出し笑いが止まらない。
佐川「承知いたしました」
自室に戻る。
扉を閉めると、静寂が落ちる。
カーディガンを脱ぐ。
毛玉のついた布を丁寧に畳む。
白いブラウスの袖を整え、エプロンを身につける。
紐を後ろで結ぶと、現実に戻る感覚がする。
床に座り、弁当の蓋を開ける。
匂いは美味しそうだ。
だが味は、よく分からない。
五十円。
その数字が、何度も浮かぶ。
箸を早く動かす。
ゆっくり食べる資格はない。
食べ終え、容器をまとめる。
手早く立ち上がる。
エプロンを整え、廊下へ出る。
リビングへ向かう。
妻はソファに腰かけ、スマートフォンを見ている。
テーブルの弁当はすでに片付けられていた。
佐川「食べ終わりました」
佐川は深く頭を下げる。
奥様は視線を上げる。
妻「そう」
佐川「お待たせいたしました」
妻「別に待っていないわ」
冷たい一言。
佐川は沈黙する。
奥様はゆっくりと立ち上がる。
妻「あなた、今日はいい勉強になったでしょう?」
佐川「……はい」
妻「思い出は値段になる」
一歩近づく。
妻「でも価値と価格は違う」
視線が鋭い。
妻「あなたが守りたがっていたあれは、価格すらなかった」
静かに刺す。
妻「それでも持ち帰ったのは、私の気まぐれよ」
佐川はうなずく。
佐川「感謝しております、ありがとうございます」
妻「そう、ならこれからも笑いのネタにしてあげる」
妻はソファに座り直す。
妻「では、片付けと掃除を続けなさい」
佐川「はい」
妻「今日は機嫌がいいの」
柔らかく笑う。
妻「余計なことを言わなければ、怒らないわ」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「承知いたしました」
再び床に膝をつく。
雑巾を握る。
冷たい床の感触。
五十円。
その数字は消えない。
だが、手は止めない。
奥様の足元を、丁寧に拭いていく。
静かな午後の光が、二人の間に落ちていた。
⸻
玄関のドアが開く音がした瞬間、奥様はぱっと顔を上げた。
妻「おかえりなさい」
声が明るい。
ほんの少し弾んでいる。
佐川は反射的に廊下へ出て、すぐに跪く。
佐川「おかえりなさいませ、旦那様」
だが旦那様の視線は、まっすぐ奥様に向いている。
夫「ただいま」
その声は柔らかい。
奥様が近づき、コートを受け取る。
自然な距離。自然な笑み。
佐川の存在は、背景に溶けている。
夫はちらりとも見ない。
妻は嬉しそうに言う。
妻「今日は早いのね」
夫「思ったより早く片付いた。寿司は18時だろ? まだ時間があるな」
靴を脱ぎながら続ける。
夫「少しのんびりしようかな」
妻「そうね」
奥様は微笑み、キッチンへ向かう。
佐川はその場で頭を下げたまま、動かない。
妻「佐川」
奥様の声。
妻「リビングの床、もう一度きれいにしておいて」
佐川「はい」
佐川は立ち上がり、雑巾を手に戻る。
リビングへ。
夫婦がソファに並んで座る。
佐川はその少し離れた位置で膝をつき、床を拭き始める。
視界の端に、二人の足元が見える。
妻がトレイを持って戻る。
グラスに冷えた飲み物。
氷の音が静かに鳴る。
妻「どうぞ」
夫が受け取る。
夫「ありがとう」
そのやり取りが、柔らかい。
佐川は視線を落とし、黙々と床を拭く。
妻が言う。
妻「今日ね、質屋に行ってきたの」
夫「例の?」
妻「ええ。あなたが許してくれたでしょう」
夫はグラスを傾ける。
夫「どうだった?」
妻が楽しげに笑う。
妻「面白かったわよ」
夫「へえ?」
妻「ねえ、クイズにしましょうか」
夫が少し身を乗り出す。
夫「何の?」
妻「ネックレスの値段」
佐川の手が、ほんの一瞬止まる。
奥様は続ける。
妻「あなた、いくらだったと思う?」
旦那様は考えるように眉を寄せる。
夫「ネックレス? 元夫からのだろ」
妻「そう」
夫「うーん……十万くらい?」
妻「残念」
夫「じゃあ一万?」
妻はにやりと笑う。
妻「どれも外れ」
俺「そんなに安いのか?」
夫が興味深そうに聞く。
妻はゆっくりと、言葉を区切る。
妻「正解は――五十円」
一瞬の静寂。
そして。
夫の口元が緩む。
夫「は?」
次の瞬間、声をあげて笑った。
俺「五十円?」
肩を震わせる。
夫「本当に?」
妻「ええ」
妻も笑う。
妻「素材としても価値がないんですって」
夫は声を抑えきれない。
夫「成功の証じゃなかったのか?」
再び笑いがこぼれる。
夫「五十円はさすがに予想外だ」
普段は落ち着いてクールな夫が、腹を抱えるように笑う。
妻もつられて笑う。
リビングに、明るい笑い声が響く。
床に膝をついたまま、佐川は雑巾を強く握る。
五十円。
その数字が、再び胸を刺す。
だが顔は上げない。
笑い声が続く。
夫が言う。
夫「ある意味、才能だな」
妻が答える。
妻「愉快な男よね」
二人の笑いが重なる。
佐川は、静かに床を拭き続ける。
夫の足元。
妻の足元。
光を映す大理石。
雑巾が通るたび、床はさらに光る。
笑い声がようやく落ち着く。
夫がまだ口元を押さえている。
「五十円……」
小さく呟き、また肩を揺らす。
妻は満足そうにグラスを傾ける。
妻「持ち帰ったわよ。あまりにも可哀想だから」
皮肉が混じる。
佐川は何も言わない。
拭き終えた床に、自分の影が映る。
笑い声の余韻の中、
佐川は静かに立ち上がり、雑巾を絞る。
リビングには、まだ二人の楽しげな空気が残っている。
その中心にいるのは、妻。
その隣で笑っているのは、夫。
そしてその外側で、佐川は淡々と役目を続けていた。
⸻
リビングの笑いがようやく落ち着いたころ。
妻「佐川」
妻の声が、空気を切る。
キッチンへ向かいかけていた佐川は、すぐに足を止める。
佐川「はい、奥様」
妻「こちらへ来なさい」
ソファの前まで歩き、静かに跪く。
夫はまだ余韻で口元を緩めている。
妻はゆっくりと足を組み替え、佐川を見下ろした。
妻「感想を聞かせて」
佐川の視線は床に落ちたまま。
佐川「……どの点についてでございましょうか」
妻「五十円」
淡々と。
妻「予想より高かった? それとも低かった?」
沈黙が落ちる。
佐川は一瞬だけ、呼吸を整える。
佐川「……予想よりも、値段がつかなかったと存じます」
妻の唇がわずかに動く。
妻「そう」
佐川「ですが」
小さく続ける。
佐川「価格がすべてではないとも、存じます」
その言葉に、俺が少し眉を上げる。
妻は目を細める。
妻「まだそんなことを言うの?」
佐川「申し訳ございません」
妻「あなた、あれを手元に残したいと懇願していたわよね」
佐川「はい」
妻「その“価値”が五十円だったのよ?」
佐川は、わずかに視線を上げる。
佐川「承知しております」
妻「それでも?」
佐川「……はい」
奥様はしばらく黙って佐川を見る。
妻「面白いわね」
静かに言う。
妻「あなたの過去は五十円。でもあなたは、それを守ろうとする」
夫が軽く口を挟む。
夫「まあ、思い出は値段じゃないんだろう」
妻はちらりと夫を見るが、すぐに視線を戻す。
妻「お前は、値段がつかなかったことをどう思う?」
佐川は答える。
佐川「……現実を知ることができたと、存じます」
妻「傷ついた?」
一拍。
妻「はい」
正直な返答。
その静かな認め方に、奥様はわずかに目を細める。
妻「強がらないのね」
佐川「強がる意味がございません」
夫が小さく息を吐く。
妻はソファに背を預ける。
妻「あなたの元夫、随分と安上がりな愛だったのね」
佐川はゆっくりと言う。
佐川「……当時は、それが全てでございました」
妻「いまは?」
佐川「いまは……五十円でございます」
静寂。
奥様の口元が、わずかに上がる。
妻「自覚があるなら、結構」
佐川「はい」
妻「では、その現実を忘れないことね」
佐川「承知いたしました」
夫はグラスを傾けながら言う。
夫「まあ、笑える話にはなったな」
その言葉に、佐川は頭を下げる。
佐川「お二人が笑ってくださるのであれば、幸いでございます」
奥様が低く言う。
妻「無駄口叩くんじゃないわよ、使用人の分際で。
あなたの役割はそこまでよ」
佐川「申し訳ございません」
妻「もういいわ。掃除を続けなさい」
佐川は深く一礼し、立ち上がる。
再び床に膝をつき、雑巾を握る。
五十円。
その数字は胸に残る。
だが、先ほどとは少しだけ違う。
値がつかなかったことは事実。
それでも、まだ残っている。
価格とは別のものが。
リビングには再び静かな空気が戻り、
佐川は淡々と床を磨き続けた。




