茶色のカーディガン
朝の皿を拭き終え、布巾をきちんと畳んでから、佐川は各部屋を順に整えていった。
リビングの床を磨いていると、背後から静かな声が落ちる。
妻「佐川」
佐川「はい、奥様」
振り返ると、奥様は窓際に立ち、外を見下ろしている。
妻「あなたの私物、今日売るわ。質屋に行くから、ついてきなさい」
淡々とした宣告。
佐川の指が、握った雑巾の上でわずかに止まる。
佐川「……かしこまりました」
妻「外行きの服に着替えて。
その格好で外を歩かれたら、こちらが困るわ」
佐川「はい」
自室に戻る。
クローゼットの中身は、ほとんど空だ。
白いブラウス。
黒いスカート。
そして、茶色のカーディガン。
それは、かつて自分に仕えていた使用人から別れ際に譲り受けたものだった。
「奥様、よろしければお持ちください」
遠慮がちに差し出されたあの日の手。
今は、その手の位置に自分がいる。
ボタンを一つずつ留める。
毛玉が目立つ。糸がほつれている。
鏡に映る自分は、整ってはいない。
だが、それしかない。
リビングへ戻る。
妻が振り返り、佐川を上から下までゆっくりと眺める。
沈黙。
妻「……本気?」
低い声。
佐川は頭を下げる。
佐川「こちらが、外出用でございます」
妻は近づき、カーディガンの胸元を指でつまむ。
妻「これが?」
ぐい、と軽く引く。
妻「毛玉だらけ。糸も出てる。
よくその姿で、私の隣に立てるわね」
佐川「申し訳ございません」
妻「“元・奥様”の外行きが、それ?」
わずかな嘲りが混じる。
佐川は視線を落としたまま答える。
佐川「いまは使用人でございます」
奥様は鼻で笑う。
妻「そうね。
使用人らしくて、ちょうどいいわ」
指を離す。
妻「脱がせたいところだけど、時間がない。
そのまま来なさい」
佐川「……はい、奥様」
妻「質屋よ。あなたの過去が値段をつけられる場所。
見届ける覚悟はある?」
佐川「はい」
妻は「声は出さないこと。
私が話す。あなたは立っているだけ」
佐川「承知いたしました」
玄関へ向かう。
エレベーター前で立ち止まる。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「あなたは階段でロビーまで行きなさい」
一瞬の沈黙。
佐川「……かしこまりました」
妻「同じ箱に乗る必要はないわ。
その格好で隣に立たれると、目障りなの」
言葉は静かだが、冷たい。
妻「ロビーで先に待ちなさい。
私が先に着くなんてことはないように」
佐川「承知いたしました」
妻はエレベーターに乗り込み、振り返らずにボタンを押す。
扉が閉まる。
静寂。
佐川は階段の扉を開ける。
冷たい空気が流れ込む。
一段、また一段。
ヒールの音はない。
自分の足音だけが響く。
カーディガンの袖を握る。
みすぼらしい、と言われた布。
それでも脱がなかった。
脱がせなかった。
使用人らしくてちょうどいい。
その言葉が胸に残る。
下へ降りながら、佐川は思う。
私はいま、値札のつく過去を連れて歩いている。
だが――
まだ歩いている。
転がり落ちてはいない。
ロビーの明かりが見えてくる。
奥様は、きっともうすでにそこにいるだろう。
半歩下がる位置を思い描きながら、
佐川は最後の段を踏みしめた。




