佐川の胸の内
立場が反転した夜
初日の夜。
「贈り物だ」
その言葉は、侮辱というよりも宣告だった。
かつて私は、使用人を“使う側”だった。
朝になれば整えられた食卓。
夜になれば静かに片付く部屋。
指示を出せば、淡々と動く人影。
私は横柄ではなかった、と今でも思う。
礼は言った。感謝もした。
だが――
床に膝をつき、雑巾を握った瞬間、分かった。
私は重さを知らなかった。
床の冷たさ。
沈黙の中で感じる視線。
「遅い」と言われる数分の圧。
“上”にいるときは見えなかった景色が、
いまはすべて見える。
私は落ちたのだと、はっきり自覚した夜だった。
⸻
奥様のテリトリー
翌朝、キッチンに立つ奥様を見た。
真新しいエプロン。
整った姿勢。
迷いのない手つき。
そこは、彼女の場所だった。
私が「準備をいたします」と言ったときの、あの即答。
「しなくていいわ」
拒絶ではない。
境界線だった。
ここは私の領域。
あなたは入らないで。
その意思が、はっきりと伝わる。
奥様は守っている。
旦那様との空間を。
食卓を。
朝の時間を。
視線の向き先を。
だから私は、優しくされない。
されないことが、むしろ理解できる。
私もかつて、自分のテリトリーを守っていた。
立場が逆転しただけ。
それだけなのに、
体感はまるで違う。
⸻
夫婦の仲
旦那様は奥様を見るとき、迷いがない。
奥様も、旦那様を見るときに不安を見せない。
そこに駆け引きはない。
私は、元夫との時間を思い出す。
私たちは、いつからか“保つ”ことに必死だった。
成功を維持すること。
周囲の目を守ること。
失敗しないこと。
会話は計算を含み、
沈黙には緊張があった。
あの夫婦には、それがない。
互いを疑っていない。
互いを選び続ける前提で立っている。
何が違ったのか。
年齢か。
状況か。
それとも、私たちの中にあった小さな傲りか。
私は、上にいることを疑わなかった。
落ちる可能性を、本気で想像しなかった。
それが違いだったのかもしれない。
⸻
これから
私は使用人になった。
だが、それが永遠かは分からない。
人生は一方向ではない。
私は一度上に立ち、落ちた。
ならば、また変わる可能性もある。
それを望んでいるわけではない。
ただ、知っているだけ。
いまは耐える。
観察する。
学ぶ。
上にいたとき見えなかったものを、
下から見る。
奥様が守っているもの。
旦那様が大切にしているもの。
それを理解しながら、
自分の芯を消さずにいる。
私はもう大富豪夫人(奥様)ではない。
だが、完全な物でもない。
床に膝をつきながら、
夜景を見上げる。
上から見る景色と、
下から見る景色は違う。
だが同じ街だ。
(私は、まだ終わっていない)
これからどうなるのかは分からない。
だが確かなのは――
私は、ここで生きている。
そして、見ている。
それが、いまの私の唯一の証だった。




