妻の胸の内
夫は何度も言った。
「家政婦を雇わないか?」
最初は笑って断った。
次は軽く首を振った。
三度目には、はっきりと拒んだ。
いらない、と。
家の中に他人を入れたくなかった。
それは潔癖でも見栄でもない。
この空間は、夫と私だけのものだから。
朝の静かなキッチン。
夜のソファ。
何気ない会話。
それを、第三者の気配で濁らせたくなかった。
私は、夫との世界を守りたかった。
⸻
「佐川の妻を雇おうと思う」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
あの男の元妻。
夫から二億円もの金を借り返さず、
そして私を侮辱した男。
虫唾が走った。
元妻のとはいえその影が、家の中に入る。
それが許せなかった。
私は断った。
はっきりと。
けれど夫は迷っていた。
助けるべきか。
切り捨てるべきか。
その顔を見たとき、分かってしまった。
ここで拒み続ければ、
夫の中に小さな“引っかかり”が残る。
「あのとき見捨てた」
その記憶が、後に影を落とすかもしれない。
それは嫌だった。
夫の心に、棘を残したくない。
だから――
私は受け入れた。
納得したわけではない。
ただ、これ以上拒めなかった。
⸻
初めて見た佐川
とても綺麗だった。化粧もせず、服装もみすぼらしいのに。着飾ったら絶対勝てない、そう思った。
落ちてきたはずなのに、崩れていない。
背筋が伸びている。
目が静かに強い。
その強さが、嫌だった。
弱っていれば安心できる。
壊れていれば、脅威ではない。
だから決めた。
優しくしない。
これからも。
情をかければ、距離が縮む。
距離が縮めば、線が曖昧になる。
私はその線を、絶対に守る。
⸻
夫への愛
私は夫を愛している。
それだけは揺らがない。
彼の声。
帰宅する足音。
隣に座る温もり。
それが私の世界。
夫の近くにいたい、これからもずっと――
離れることだけは、耐えられない。
それが本音。
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六歳差という影
夜になると、ふと思う。
私は彼より六歳年上。
彼はまだ若い。
未来が広い。
選択肢も多い。
(私は、彼の人生を狭めていない?)
もっと若い人。
もっと軽やかな未来。
彼には別の可能性があったのでは。
その可能性を、私が閉じているのではないか。
そんな考えがよぎる。
だからこそ、私は強くなる。
料理をする。
笑う。
疑わない。
“選んで良かった”と思わせ続ける。
⸻
佐川を見るたびに
彼女は、未来の警告のようだ。
“奥様”から“使用人”へ。
その反転。
他人事ではない。
だから私は線を引く。
冷たくする。
距離を保つ。
それは残酷ではない。
防衛だ。
私は夫の隣に立つ。
その場所を、守る。
たとえ私の不安がどれほど小さく、
どれほど醜く見えたとしても。
愛しているから、怖い。
怖いから、強くなる。
そして今日も、私は笑顔で夫を見送る。
揺らいでいるのは、
佐川ではなく――
きっと、私のほうなのだから。




