キッチン
朝の光が、大きな窓から差し込み、白いリビングを静かに照らしている。
床はすでに磨かれているが、空気は冷たい。
佐川はキッチンの前で、控えめに口を開いた。
佐川「奥様……朝食のご準備をいたします」
奥様は振り向きもしない。
妻「しなくていいわ」
短く、切り捨てるような声。
佐川「ですが、旦那様が間もなく――」
妻「主人の朝食は、私が作るの」
はっきりとした線引き。
妻はクローゼットから真新しい白いエプロンを取り出し、丁寧に身につける。皺ひとつない、清潔な布。
佐川のくたびれたエプロンとは対照的だった。
妻「あなたは下がっていなさい。
朝の空気を汚さないで」
佐川は一歩下がる。
キッチンに立つ奥様は優雅だった。
卵を割り、パンを焼き、サラダを整え、スープを温める。
手際は美しく、音さえも心地よい。
やがてテーブルに朝食が整然と並ぶ。
その時、寝室のドアが開く。
夫が現れる。
夫「……おはよう」
穏やかな声。
佐川は即座に深く頭を下げる。
佐川「おはようございます、旦那様」
無視。
視線すら向けられない。
夫は妻のにだけ微笑む。
夫「おはよう。いい匂いだな」
妻「おはよう。待っててください、もうできます」
空気が温かくなる。
佐川の存在は、そこにないかのようだった。
奥様が振り返る。
妻「佐川」
佐川「はい」
アルミに包まれたものを、片手で差し出す。
妻「お前は後で部屋で食べなさい」
雑に押しつけられる。
妻「ここに座る資格はないわ」
佐川「……かしこまりました」
夫婦はテーブルに着く。
夫「いただきます」
穏やかな朝の時間。
夫がふと思い出したように言う。
夫「今日はどこかに行くのか?」
妻はナイフを置きながら答える。
妻「ええ。佐川を連れて、あの人の私物を査定に出すわ」
その言葉に、佐川の指がわずかに強張る。
夫は淡々と言う。
夫「全部売るのか?」
妻「価値があるものだけ」
夫「そうか」
コーヒーを一口。
夫「売った金は好きに使えばいい」
奥様の目が柔らかくなる。
妻「いいの?」
夫「ああ。もうあれの物じゃないだろ」
その一言が、静かに落ちる。
夫は続ける。
夫「今日は仕事を早めに終える。早く帰るよ」
妻「本当?」
夫「寿司屋を家に呼ぼうと思う。手配しておく」
奥様は嬉しそうに笑う。
妻「素敵。楽しみにしているわ」
その会話を、佐川は数歩離れた位置で聞いている。
手には冷たいおにぎり。
食事は終わる。
夫は立ち上がり、妻の肩に触れる。
夫「行ってくる」
奥様は玄関まで送り、笑顔で見上げる。
妻「いってらっしゃい」
佐川も後ろからついていく。
玄関で、自然と膝をつく。
頭を深く下げる。
佐川「いってらっしゃいませ、旦那様」
視線は向けられない。
ドアが閉まる。
静寂。
奥様はゆっくりと振り返る。
妻「佐川」
佐川「はい」
妻「片付けなさい」
佐川が立ち上がろうとした瞬間。
妻「その前に」
視線がエプロンに落ちる。
妻「その汚れた格好で、主人の食卓に触れるつもり?」
佐川「……申し訳ございません」
妻「エプロンを替えてからにしなさい」
冷たい命令。
妻「主人が使うお皿よ。
あなたの穢れを移されたら不快だもの」
佐川「……かしこまりました、奥様」
妻は淡々と続ける。
妻「あなたは道具。
道具は、清潔でなければ意味がない」
佐川は深く頭を下げる。
朝の光は明るい。
だが、佐川の手にあるアルミの包みは、ひどく冷たかった。




