表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
10/82

五時十九分

夜の名残がわずかに残る、青白い早朝の光。

高層階のリビングは静まり返っている。


時計は五時を少し回っていた。


佐川は足音を殺し、リビングへ入る。

昨日と同じ白いブラウス、黒のスカート、染みの落ちきらないエプロン。

眠気はない。ただ緊張だけがある。


ソファーには、すでに妻が座っていた。


深緑色のワンピースは完璧に整い、髪も美しく結い上げられている。

片脚を優雅に組み、静かにくつろいでいる。


夫の姿はない。

まだ寝室で眠っているのだろう。


佐川は深く頭を下げた。


佐川「……おはようございます、奥様。本日もよろしくお願い申し上げます」


返事はない。


妻は視線すら向けない。


静寂が、意図的に長く引き延ばされる。


佐川は姿勢を崩さず、もう一度言う。


佐川「本日も誠心誠意お仕えいたします」


カップを置く小さな音。


妻「……何時?」


唐突な問い。


佐川は顔を上げずに答える。


佐川「……五時を、少し過ぎております」


妻「少し?」


奥様の声は低い。


妻「五時から何をする約束だったかしら」


佐川「……リビングの雑巾掛けでございます」


妻「では」


ゆっくりと立ち上がる。


ヒールの音が冷たく響く。


妻「なぜ、まだ床に雑巾が触れていないの?」


佐川は一瞬、言葉を失う。


佐川「……申し訳ございません。すぐに」


妻「“すぐに”?」


奥様は近づく。


妻「五時“から”と言ったわよね」


佐川「……はい」


妻「五時“過ぎ”ではないのよ」


佐川の指先がわずかに震える。


奥様は目の前に立ち、見下ろす。


妻「夫はまだ寝ているわ」


視線が冷たい。


妻「あなたの仕事は、あの人が目を覚ます前に整えること」


佐川「……はい」


妻「なのに、あなたは“起きてから来た”」


その一言が、静かに刺さる。


妻「あなたの起床時間なんてどうでもいいの」


奥様は一歩踏み出す。


妻「贈り物が、時間を守らない?」


沈黙。


妻「あなたは、自分が選ばれた存在だとでも思っているの?」


佐川「……いいえ」


妻「なら、なぜ甘えるの」


佐川は床を見る。


妻「顔を上げなさい」


命令。


佐川はゆっくりと顔を上げる。


奥様の瞳は、感情がない。


妻「朝の挨拶、返さなかった理由が分かる?」


佐川は小さく首を振る。


妻「価値がなかったからよ」


その言葉が、空気を凍らせる。


妻「五時に仕事を始めない使用人に、返す言葉なんてないでしょう?」


佐川の喉がわずかに動く。


佐川「……申し訳ございません、奥様」


妻「謝罪も遅い」


妻は視線を外す。


妻「お前はまだ、自分が“人”だと思っている」


沈黙。


妻「違いますか?」


佐川「……私は奥様にお仕えする者でございます」


妻「それだけ?」


佐川は答えられない。


奥様はソファーへ戻り、脚を組む。


妻「床に膝をつきなさい」


佐川はすぐに従う。


冷たい大理石に膝をつく。


妻「その位置が、あなたの正しい高さよ」


静かな声。


妻「雑巾掛けは三度拭き。

昨日あなたが歩いた場所は四度。

音は立てないこと。主人の眠りを乱したら、今日は一睡もさせないわ」


佐川「……はい」


妻「声が小さい」


佐川「はい、奥様」


佐川はバケツの水に手を入れ、雑巾を絞る。


水音がわずかに響く。


妻「うるさい」


即座に叱責。


佐川「……申し訳ございません」


妻「主人を起こす気?」


佐川「そのようなことはございません」


妻「なら、音を消しなさい」


佐川は息を止めるようにして、床を拭き始める。


朝日が差し込み、部屋は明るくなる。


だが、空気は冷たいまま。


奥様は静かに見下ろす。


妻「起きるのが遅い使用人に、尊厳はないのよ」


その一言が、重く落ちる。


五時十九分。


朝はまだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ