監査
監査開始は、午前0時。
天野 遥は、21時30分にSOCへ出勤した。
夜勤初日ということもあってか、まだ身体に馴染んでいない。
仕事場であるSOC室まで続く廊下などの照明は落とされいたが、
SOCだけは昼間のように明るく、モニターの光だけが人の輪郭を浮かび上がらせている。
「お疲れ。じゃ、引き継ぎ頼むよ」
デイチームの担当者が簡単な口頭説明を残し、席を立った。
特段の異常なし。
Blue-01の稼働も安定。
いつも通りの言葉だった。
天野はログインし、自分の端末を立ち上げる。
Blue-01 のダッシュボードには、
低い音を立ててアラートが流れ続けていた。
low trust
low trust
low trust
どれも閾値を下回り、
“確認不要”として自動的に処理されていくものだ。
「……今日も静かだな」
隣の席で、田所がコーヒーを啜りながら言った。
「監査って言っても、所詮は演習だ。
システムが止まるようなことは起きないよ」
その言い方は、安心させるというより、
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
23時50分。
SOCに設置された共有モニターに、
SI社からの接続通知が表示される。
Red-Σ 接続準備完了
「来たな」
田所が画面を一瞥する。
天野は無意識に背筋を伸ばした。
数日前のブリーフィング語った結衣の言葉が頭をよぎる。
―― 初動がすべて。
―― 些細なことでも報告を。
だが、今のところ“些細なこと”すら起きていない。
0時ちょうど。
Red-Σ が起動したことをSI社が置いたノートpcからでも確認した。
画面上では、目に見える変化はほとんどない。
パケット数が、ほんのわずかに増えただけだ。
「……これ、本当に始まってるんですか?」
天野が小声で聞くと、田所は肩をすくめた。
「攻撃ってのは、最初はこんなもんだ。
派手なことはしない。様子見だよ」
天野は頷きつつも、ログを追い始めた。
ポートスキャン。
認証失敗ログ。
どれも、過去に何度も見たパターンだ。
だが、ふと一つの数値が目に留まる。
タイムスタンプのズレ。
NTP(時刻)サーバが示しているの時間を比べると、ほんの一秒だけずれている。
「……?」
気のせいだろうか。
天野はログを遡った。
同じサーバ。
同じ時間帯。
やはり、微妙なズレがある。
「田所さん、このサーバ……」
「ん?」
「時刻、ずれてませんか?」
田所は画面を覗き込み、すぐに首を振った。
「ああ、それな。
前にもあったよ。負荷がかかるとズレることがある。」
「でも、今日は特に負荷は……」
「誤差の範囲だ。
NTPなんて完璧じゃない。時間になったら、修正が入るだろう。」
その言葉に、天野はそれ以上言えなかった。
だが、違和感は消えない。
天野は理由を探すため、
関連するログをさらに遡った。
すると、別の情報が浮かび上がる。
該当サーバの、OS側の最新セキュリティパッチ未適用。
「……え?」
すかさず、これまで適用されたパッチを確認する。
最終更新日。
引き渡し直後の日付のままで、止まっている。
「これ……更新、止まってます…よね」
田所は一瞬だけ眉を動かした。
「あーそれ、検証とかが面倒な上、引き渡し直後に急に忙しくなってな。
今となっては業務止められないし、マニュアルも整ってないし、お願いするほどの工数やカネがない。」
それは、天野にとって初耳ではなかった。
だが、監査中に見ると、意味が違って見える。
low trust のアラートが、また一つ流れた。
Blue-01は、警告を上げない。
正常。
問題なし。
想定内。
「……」
天野は、報告画面を開いたまま、指を止めた。
これは、報告すべきことなのか。
それとも、騒ぐほどの話ではないのか。
田所は画面から目を離し、言った。
「今日は長丁場だ。
最初から神経すり減らしたら、後でキツくなるぞ」
正論だ。
ベテランの経験則として、理解もできる。
だが――。
天野の胸の奥で、
小さな警報が鳴り続けていた。
もし、このズレが入口だったら?
もし、誰も気づかない場所から始まっていたら?
時計を見る。
0時23分
監査が始まって23分経った。
Red-Σ のログが、
わずかに調査手法を変え始めていた。
それはまだ、
“異常”と呼ぶには小さすぎる変化だった。
だが天野は思う。
これは、始まりなのではない…のか、と。
静かで、音のない戦い。
その火蓋がすでに切られていたことには、誰にも気づかれないまま、時間だけが進む。
もしこの1秒のズレが、敵の第一歩だったら——
48時間後、この企業の全てのシステムが、人質に取られているかもしれない。
天野達はまだ、その重さに気づいていなかった。




