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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

化学反応

作者: 海月瑞希

ああ、ネジの外れた悪人に生まれ変わってしまいたいと私めの深層心理が泣き叫ぶのでした。嫁も子供も夜逃げして影も形もない、そんなありふれた人生でした。人生そのものを黒歴史ノートの詠唱に使っていましたが、そんな人生も終わりを迎えるのでした。


「本日のニュースです。今日から法律がなくなりました」

 

段ボールとコンビニ袋が同居する子供部屋で、電子辞書を懐中電灯に掲げネットの王様を気取ろうとした刹那でした。


私は観測者になっていたのです。


科学者になった気分でした。眼の前で何かしらの化学反応が進んでいる。他人事ではないその現象を他人として(いや人ですら無いのかもしれません)捉えた私の口はふさがりませんでした。


このときだけは真人間になれていた気がします。


私はお宝の山(世間的に見たらゴミの山でしょうが)をかき分け、錆びた扉に手を掛けました。


空は一点の曇りもありませんでした。


小鳥がさえずり、蝶が蜜を吸ってました。いつもは散々ドアを楽器にする大家さんも今度は私の肩を楽器にしました。先程のニュースが真実かを何度も何度も尋ねてきたのです。それはそれは、認知症を思い浮かべました。


ネットサーファーの同志たちも同様に動揺してました。え?と一言呟く者もいれば、ドッキリだと冗談めかす者、六法全書を破り捨てる者が飽和していました。しかし今日は4月1日ではありません。いや、法律がなくなった今、祝日や給料日も意味を成さないでしょう。


はっ、今更ながら我に帰った。この世はどうなってしまうのやら。私は街を散策することにした。


気がついたら随分変わってしまったものだ。引きこもりに転職し、すべてを通販で済ませていた私にとってはこの街は新鮮だった。


日差しってこんなに眩しかったんだな。


今の私には、眩しすぎた。


苔むした街路樹、ひび割れた蛍光灯に絡みついた蜘蛛の糸、私もこの街も原型をとどめていないのだな。


いやそんなことはどうでもいい。


私は私が健常者なのか確かめたかった。近所のおっさんたちは辺りで情報収集をして、ニュースキャスターや専門家は今後の未来を語っていた。youtubeでは、専門家でもない人間が団結して新しい国を築こうとしたり、国家転覆を企てたり、破壊衝動に苛まれたりするものもいた。アンチコメント系の事実上の捨て垢が珍しく動画を投稿しているのが目にうつった。


と言っても、コメ欄をあさって、初期設定と何ら変わらないアイコンをタップしてチャンネルにとんだのである。


画面が明滅し、アンチコメント系アカウントの動画が再生された。


いつもは他人の動画のコメント欄でしか見ない、記号の羅列のような名前。その主が、初めて顔を晒していた。


部屋は、私のお宝の山と同等か、それ以上に混沌としていた。だが、主の顔は混沌とは程遠い、ある種の歓喜に満ち溢れていた。血走った瞳でカメラを睨みつけている。


「見たか、お前ら!『法』?『正義』?『常識』?全部消えたんだよ!俺を馬鹿にしてた『マトモ』な奴ら、今どんな気持ち? なあ、どんな気持ち? これからが本番だ。俺の時代だ! リアルでやれるのかって言ったよな? ああ、やってやるよ!」


それは、私の深層心理が泣き叫んだ、あの声そのものだった。


私がなりたかったネジの外れた悪人の、なんと純粋な結晶だろう。彼は観測者ではない。実行者だ。彼は化学反応を待つのではなく、自らが触媒になろうとしている。


私はそっとスマホを閉じた。あの男の濁った目は、しかし、日差しよりも眩しく私を焼いた。


私は、眩しさに目を細めながら、再び街を歩き始めた。


先程までの日常の薄皮は、もうあちこちで破れ始めていた。大家さんは相変わらず誰かの肩を楽器にしていたが、今度はその相手が血を流していた。さっきまで情報収集をしていたおっさんたちは、一軒の家のシャッターをバールのようなものでこじ開けようと、共同作業に勤しんでいた。


コンビニ。そう、引きこもり時代の私を支えた、文明の最後の砦。


その自動ドアが開いたまま、壊れたように動かなくなっていた。中から、甲高い悲鳴と、ガラスの割れる音がした。


私は物陰から観測する。


化学反応だ。体格の良い男がレジカウンターの中にいた店員を突き飛ばし、足元の床に叩きつけている。別の客だったはずの女が、我先にと棚から化粧品や高価な酒をバッグに詰め込んでいる。


さっきまで平民だったはずの有機物が、澄んだ欲望という公式に従って動いている。美しい。実に合理的だ。


突き飛ばされた店員が、這いずりながら私の方を見た。


焦点の合わない目で、私と目があった。


彼は「助けて」と口を動かした。


その口の動きは、私にとっては何の意味も持たなかった。「助ける」という行為の根拠が存在しないのだから。


私は彼が健常者なのかどうかを考えた。いや、違う。彼こそが異常者だ。存在しないルールに、まだ助けを求めている。


では、私はどうだ?

私は健常者か?

私は彼を助けなかった。


何も感じなかった。

ただ「ああ、始まったな」と思っただけだ。


嫁も子供も私を捨てた。社会も私を捨てた。その私を捨てた社会が、今、自壊している。黒歴史ノートに書き連ねた呪詛の数々が、現実となって世界に溢れ出しているのだ。


私は嗤った。


錆びた扉が軋んだような、自分でも聞いたことのない音が喉から漏れた。


「観測は終わりだ」


私は日陰から一歩踏み出した。コンビニの壊れた自動ドアが、まるで新しい舞台への入り口のように見えた。


この崩壊した世界で、私が健常者なのか、それともネジの外れた悪人なのか。


それを確かめる実験は、始まったばかりだった。

私めが足を踏み入れた瞬間、実験室の空気は凍りついた。


床に転がった店員がしゃっくりしたかのように息を飲み、酒瓶を漁っていた女の動きが止まる。


レジカウンターから乗り出していた大柄な男が、ゆっくりと私めの方を向いた。その拳には、店員の口から拭ったであろう血が、べっとりと付着していた。


男は威嚇する。獣が縄張りを荒らされた時に発する、純粋で動物的な音だ。


女は私めのみすぼらしい姿を一瞥し、脅威ではないと判断したのか、素早く出口へと後ずさりを始めた。


床の店員は、絶望に絶望を上塗りされた顔で、ただ震えている。


彼ら三者三様の化学反応。実に興味深い。


だが、私は観測者ではない。もう違うのだ。


私めは、彼らを無視した。


大柄な男の横をすり抜け、床の店員をまたぎ、慣れ親しんだあの棚へとまっすぐ向かった。

そこは、引きこもり時代の私を支えた聖水。カップ麺とエナジードリンクの棚だ。


「おい、テメェ」


男が背後で何か言っている。どうでもいい。


私は、いつも通販でカートに入れていた、一番安価な大盛りのカップ麺を一つ、手に取った。

これだ。これこそが私の血肉であり、黒歴史ノートのインク、潤滑油だった。

私は、このお宝を抱えたまま、ゆっくりと振り返った。


大柄な男は、完全に無視されたことで、その顔を真っ赤に染めていた。プライドという、もはや何の価値もなくなった概念に突き動かされている。滑稽だ。


彼は怒鳴りながら私に掴みかかろうとした。その太い腕が振り上げられる。


――実験開始。


私めは、持っていたカップ麺の容器を、振り上げられた男の顔面に叩きつけた。


乾いたプラスチックが砕け、乾燥した麺と粉末スープが、男の汗と店員の血が混じった顔にブワッとまき散らされた。


それは、ヒーローの必殺技のような洗練されたものではない。ただ、手にとったモノを、そこにあった顔にぶつけただけだ。


男は目元を掻き回し、数歩よろめいた。


私は、空になった容器の残骸を捨て、床に落ちた酒瓶を拾い上げた。さっきの豚が落としていったものだ。

男は体勢を立て直し、私めを殺そうと突進してくる。


私は振りかぶった酒瓶の底を、男の膝に、ありったけの力で振り下ろした。


錆びた扉をこじ開けた、あの力だ。

鈍い音。骨が軋む感触。


男はバランスを崩し、商品棚に激突しながら派手に転倒した。棚からお菓子や缶詰が雪崩のように降り注ぐ。


静寂。


あるのは、男のうめき声と、私の荒い息だけだ。


床の店員が、信じられないものを見る目で私を見上げている。


私は、自分の手を見た。


酒瓶は割れずに、まだ手の中にあった。震えていた。


これは恐怖か? いや、違う。

これは、歓喜だ


深層心理が泣き叫んでいた、あのシャウト。

ネジの外れた悪人。


私は今、確かに、そうなっていた。

法律が消えたこの世界で、私は初めて健常者になったのだ。


私は、うずくまる男を見下ろした。


「お宝の山を荒らすなよ」


その声は、私自身のものだ。だが鋭く乾いていた。


私は割れた蛍光灯の残骸が散らばる床を、我が身を省みずに踏みしめ、コンビニの出口に向かった。


店員が何かを言おうと口を開いたが、声にはなっていなかった。


どうでもいい。


実験は成功だ。


日差しはもう、眩しくなかった。

むしろ、心地よい。


自らの腹の音を聴いた私は、自分のお宝であるカップ麺を拾い上げるために、もう一度、暗い店内に戻ることにした。


あの男が、まだ動くなら、次の実験を試してみるのもいいだろう。


床に散らばったお宝の残骸――粉々になった麺と、血と汗に混じって床にこびりつく粉末スープ――を、私めは冷ややかに見下ろした。うずくまる大柄な男が、私めを呪詛の目で睨みつけている。膝を押さえ、脂汗を流しているが、その瞳にはまだ獣の光が残っていた。


私めは男を意に介さず、再びカップ麺の棚に向かった。まだお宝は残っている。


その瞬間、店の隅で息を潜めていた店員が、ネズミのような甲高い声を上げた。


「あ、あの。ど、どうぞ。お好きなだけ、お持ちください」


私めの動きが止まった。


ゆっくりと、首だけを店員に向ける。彼は、カウンターの陰に半身を隠しながら、必死の形相で私めに許可を与えていた。


許可?


この男は、まだ自分を店員だと思っている。まだ、この店の商品を自分の管理物だと思っている。そして、私めを客あるいは強盗と認識し、旧世界のルールに則って差し出すことで生き延びようとしている。


滑稽だ。なんと滑稽なのだ。


彼はまだ、あのニュースが真実であることを理解していない。


法律が消えたのだ。


店員も客も所有権も、すべて消えたのだ。


私めは再び棚に向き直り、今度は躊躇なく、5つのカップ麺を掴んだ。そして、エナジードリンクの冷蔵庫を開け、数本を抜き取った。こいつらが、私の新しいお宝だ。薄汚いリュックサックに、戦利品を詰め込む。


店員が、安堵したように息を吐くのが聞こえた。私めが自身を放置すると判断したのだろう。


だが、ここでの実験はまだ終わっていない。


私めはリュックを背負うと、うずくまる男の前に立った。男は警戒し、身構える。


私めはリュックからエナジードリンクを1本取り出し、彼の目の前に、カコン、と置いた。


男は、意味が分からず私めとドリンクを交互に見た。


次に、私めはカップ麺を一つ、その横に置いた。


私めは、何も言わなかった。

ただ、彼を観測した。


この男は、暴力という新世界のルールには即座に適応した。だが、今は違う。


私めは彼に「情け」をかけたのか?

私めは彼を「仲間」にしたいのか?

私めは彼を「家畜」として餌付けしているのか?

その答えを、彼自身に考えさせるのだ。


混乱。それこそが、旧世界のルールを破壊する、最も強力な試薬だ。


男が何かを言う前に、私めは彼に背を向けた。


もはや、この小さな実験室に用はない。亡霊も、獣も、あとは好きにすればいい。


壊れた自動ドアをくぐり抜け、再び街路に出る。


日差しが、今度は私めの新たな船出を祝福していた。


空は相変わらず、一点の曇りもなかった。

街は、さっきよりも騒がしくなっていた。


遠くでサイレンのような音が聞こえるが、それはもう救済ではない。ただの騒音だ。悲鳴と怒号が、小鳥のさえずりをかき消している。


ふと、あのアンチコメント系アカウントの動画を思い出した。


『リアルでやってやる』


彼は今頃、どこで、どんな実験をしているのだろう。


私めは、錆びた扉のあったアパートとは逆の方向へ、のしのしと歩き出した。

この街全体が、私めの実験室であり、お宝の山なのだから。


私めは、ひび割れた自動ドアに背を向けた。


実験は成功だ。私めは健常者であり、この新しい世界の支配者の一端だ。


リュックの中のお宝の重みが、背中に心地よい。


黒歴史ノートの詠唱は終わった。これからは、私めが世界に新しい法則を書き記すのだ。


そう思い、眩しくも心地よい日差しの中へ、一歩踏み出した、その時だった。


背後で、弱々しい足音がした。


私はゆっくりと振り返ろうとした。


鈍い音がした。


甲高い金属音と、熱い痛みが、背中の中心を貫いた。


「え?」


私めの口から、観測者でも悪人でもない、ただの間抜けな声が漏れた。


力が、急速に抜けていく。


リュックの紐が肩から滑り落ち、カップ麺とエナジードリンクが、アスファルトの上に無様に転がり落ちた。


私めは、膝から崩れ落ちた。


目の前が、急速に赤黒くなる。


見上げた先に立っていたのは、あの獣ではなかった。


そこにいたのは、あの店員だった。


旧世界の亡霊。そして異常者。


彼は、レジ横で使う事務用の、錆びたカッターナイフを握りしめていた。その刃が、私めの血で濡れている。彼は顔をぐちゃぐちゃにし、ただただ、動物のように喘いでいた。


……なぜ……?


私めは彼を放置したはずだ。

私めは彼を無害と判断したはずだ。


……ああ、そうか。


健常者か異常者か、そんなことはどうでもよかったんだ。


私めは、最強の捕食者でも、冷静な科学者でもありませんでした。


ただ、ネズミに背中を噛まれた小物でした。


……なんだ……それ……


ネジの外れた悪人? 新世界の健常者?


くだらないです。


私めの人生そのものを詠唱に使った黒歴史ノートの、最後のページは、こんなにもあっけなく、こんなにも滑稽な結末で閉じられるのか。


眩しかった日差しが、急速に色を失っていきました。


遠くで戦慄く悲鳴や怒号が、海に沈んでいくかのように遠のいていきました。


私めの口は、「助けて」と動こうとしたが、もう音にはなりませんでした。


空は、相変わらず、一点の曇りもありませんでした。


私めは、エナジードリンクの甘ったるい匂いの中で、ただの他人事として、自分の死を観測していました。


化学反応は、終わってしまいました。




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