第8話 『宿る』と『取り憑く』の違い
「ん? 説明してなかったか?」
「説明って何ですか?」
湊は頭上にたくさんの疑問符を浮かべ、さらに大きく首を捻る。
そんな湊の様子に、紫呉は途端に真面目な表情を浮かべると、珍しく申し訳なさそうに頬を掻いた。
「ああ、まだ説明してなかったっけか。悪い。じゃあそこの説明からか。まず、善良な霊が『モノ』に憑くことを、俺らみたいな見えるやつは『宿る』って呼んでんだよ」
「善良な霊ってことは、そうじゃない霊もいるってことですか?」
「当たり前だろ。そうじゃないのは悪霊ってやつだな。そいつらが『モノ』に憑くことを『取り憑く』、または単純に『憑く』と呼んでる。あ、『モノ』ってのは物体のことな」
紫呉の説明を、湊は何度も頷きながら真剣に聞く。
霊にも善や悪があることなど、これまで考えたこともなかった。湊にとって、視界に入るすべての霊は悪のように思っていたからである。
幸い危害を加えられたことはないが、『見える』というだけで霊に嫌悪感のようなものを持っていたのだ。
霊との繋がりをすべて遮断するために、わざわざコンタクトレンズをつけているくらいなのだから。
しかしそこまで考えたところで、湊の中にふと疑問が浮かんできた。
「説明はわかりましたけど、善良な霊と悪霊ってどう区別してるんですか?」
「お、いいとこに目をつけたな。善良なものは、ただ願いごとを持ってるってだけで生きてる人間に危害は加えねぇ。逆に悪霊は願いを持たずに人間に危害を加えるってとこだな」
「区別は意外と簡単なんですね。でも願いごとって?」
湊がさらに問うと、紫呉は組んでいた足を組み替え、説明を続ける。
「普通の善良な霊は、大なり小なり願いごとを持ってる。だからそれを叶えるまで成仏できねぇ。俺らはその願いを叶えて、成仏させてやるんだ。まあ、俺はまだ叶えてやったことはねーけどな」
「どうしてですか?」
紫呉の行動力ならばすぐに叶えてやれるだろうに、と湊が紫呉の顔をまっすぐに見つめた。
すると紫呉は大きく息を吐いて、困ったように首を左右に振る。
「俺は見えるだけで、声は聞こえねぇ。だから霊が何を願ってるのかがわかんねーんだよ」
「もしかして、前に言ってた『うってつけの人材』って……?」
湊が思わずそう口にすると、紫呉は「待ってました」とでも言いたげに、満面の笑みを浮かべた。
もう嫌な予感しかしない。
「おう、お前は霊と簡単な会話ならできるって言ってたろ。見えるだけでもありがたいと思ったけど、まさか会話までできるなんてな」
「確かにそれは言いましたけど……」
紫呉と初めて出会った日、半ば脅されるようにして仕方なしに話したことを思い返した。
送ってくれた車の中でも、色々と詳しく聞かれたのを覚えている。
その時やたらと紫呉が上機嫌に見えたのは、自分が霊と話せることを知ったからだと、湊は今になってようやく理解した。
「つまり、おれが紫呉さんの代わりに霊の願いを聞く、ってことですか?」
「そういうこと。理解が早くて助かるわ。どうやらこの絵に宿ってるらしくてな」
湊が改めて確認するようにして聞くと、紫呉は笑顔を浮かべたままで湊の肩を叩く。その姿に、湊は小さな溜息を一つ落とした。
「それくらいはすぐにわかりますって。でも、もしこれに悪霊が取り憑いてた場合はどうするんですか?」
湊は首を傾げながら、さらに疑問を投げかける。
悪霊だった場合は願いを持たないらしいし、人に害をなすのなら、どうにもならないどころか自分たちが危険ではないかと思ったのだ。
すると、紫呉はあっさりと答えをよこした。
「その時は祓い屋に頼んで祓ってもらうんだ」
「祓い屋?」
「そう。簡単に言えば、悪霊専門で退治してくれるやつだ」
「なるほど、悪霊はちゃんと退治するんですね」
言われてみればそうだよな、と湊が納得して、頷く。
だが、そこで紫呉が肩を落とし、これまた珍しく長嘆した。
「そうなんだけどよ、普段頼んでる祓い屋に祓ってもらおうとすると、これがめちゃくちゃ高ぇ。相場の倍以上取るだけあって、腕は確かなんだけどな」
なるべくあいつには頼みたくねぇ、と紫呉は顔をしかめながら愚痴る。
「ああ、腕はいいけど、金銭的には頼りたくないんですね……」
「まあそういうことだ。かといって、安くても腕の悪いやつには頼みたくねーしな」
湊が簡潔にまとめると、紫呉は素直に頷いた。
「確かにそれもそうですね」
いくら安くても腕が悪いのでは意味がない。湊は再度納得する。
「それに依頼人に請求できる場合もあるんだが、まれにできない場合もあんだよ」
「どういうことですか?」
「悪霊になった浮遊霊をたまたま見つけることがあったりとかな。まあ俺は悪霊も見えるだけだけどな。で、そん時は自腹になるだろ。あと聞いた話では、祓ってから『そんな話聞いてない』ってごねる依頼人なんかもいるらしい」
紫呉がまたも大きな溜息をついた。
ごねる依頼人はさすがに面倒そうだな、などと湊は考えつつ、口を開く。
「じゃあ、紫呉さんは悪霊を見つけたらすぐ祓い屋にお願いするんですか?」
「まあそれしかできねーからな。放っておくわけにもいかねーし」
周りに危害を加えられたらたまったもんじゃねぇ、そう答えて紫呉は頭を抱えた。
紫呉のことだから、悪霊を放っておくこともありそうに思えるが、意外と真面目に考えているらしい。
その辺りはやはり『優しい人』なのかもしれない、と湊は思う。
「やっぱり放っておくと危険そうですもんね」
「けど、確実に依頼人に請求できる時以外はなるべく頼りたくねぇ」
かわいそうなくらいにうなだれる紫呉を見やりながら、湊はこれまでのことを振り返った。途中で「おや?」と首を傾げる。
「そういえば、おれ今まで悪霊なんて見たことないと思いますよ? ホントにいるんですか?」
湊の言葉に、紫呉はようやく顔を上げた。それからしっかりと頷いてみせる。
「悪霊は数こそ少ねーけど、ちゃんと存在してる。まあ、ほとんどは普通の善良な霊だけどな。お前の場合は運が良かったんだろ。あとはコンタクトで霊の姿を遮断してるからってのもあるんだろーな」
「あ、そうかもですね」
湊は「なるほど」と、胸の前で両手を合わせた。
確かに、『コンタクトレンズが悪霊の姿も遮断してくれていた』と考えるのが妥当である。
家ではコンタクトレンズを外していることもあるが、これまで家の中で霊を見たことはない。これはおそらく、家の中には霊そのものが存在していないのだろう。
では、もし外でコンタクトレンズをつけずに生活していたらどうなっていたのか。
湊はついそんなことを考えてしまい、途端に小さく身震いしたのだった。