第6話 大事な客と気になる敬語
ある木曜日の午後。つきしろ骨董店の前に湊の姿があった。
湊がここでアルバイトを始めてから三日目のことである。今日は大学帰りにまっすぐ店まで来ていた。
快晴の空の下、頬を撫でる初夏の風が心地いい。
その風を大きく吸い込んだ湊が、店のドアに向き直る。
ふと通りすがりの若い女性に気づき、軽く会釈をすると、女性も同じように会釈を返して去っていった。
「よし、今日も頑張るか」
湊は改めてドアを見上げる。軽く腕まくりをして、気合を入れた。
ここ数日の仕事内容は、店内の掃除や簡単な書類整理、ごくたまにある接客などで特に難しいことはなかった。
これも、店長の紫呉が意外にも丁寧に仕事を教えてくれたからである。もちろん口は悪いままだったのだが。
覚えなければならないことはこの先もたくさんあるだろうが、「これなら頑張れる」と湊は思っていた。
骨董品の価値などはまださっぱりわからない。かろうじて「古書の初版本は高そうだな」くらいの認識である。だが、紫呉は「それで構わない」と言ってくれたので、ゆっくり勉強していこうと考えていた。
またこの数日で知ったのは、骨董屋を営むには『古物商許可証』は必要だが、『骨董品鑑定士』には資格がないということである。
つまり、湊も今すぐに『骨董品鑑定士』を名乗ることができる。もちろん名乗るだけだが。
さて今日の仕事は何から始まるのだろう、と湊がドアノブに手をかける。
「おはようございます」
いつもと同じように挨拶をしながら店内に入った時だ。
その視界に映り込んだのは、紫呉と若い男性の姿である。
男性は七分袖の黒いTシャツにジーンズというラフな格好だった。年齢は紫呉と同じくらいか、少し年上に見える。
ちなみに、先日車で家まで送ってもらった時に聞いた情報によると、現在紫呉は二十五歳らしい。思ったよりも年上だったことに驚いたのは、まだ記憶に新しい。
二人はレジカウンターを挟んでそれぞれ椅子に座り、何かを話しているようだった。
湊の姿を認めた紫呉が、すぐさま声と片手を上げる。
「おう、湊。ちょうどいいとこに来た」
「?」
無言で首を傾ける湊に向けて、紫呉はさらに続けた。
「ちょっとドアに『休憩中』の札かけといてくれ」
「あ、はい。わかりました」
湊は返事をするとすぐに振り返って、今入ってきたドアの横にぶら下げてある札の束を取った。
いくつかある木製の札の中から『休憩中』の札を探し、それを外から見えるようにしてドアの内側にかける。代わりに外した『営業中』の札は、他のものとまとめて元の場所に戻した。
『休憩中』の札がかかっているうちは、他の客は来ないだろう。
「これでいいですか?」
「ああ」
満足そうな紫呉の返事に安心してから、湊はきょろきょろと辺りを見回した。きちんと整頓された店内には男性以外の客の姿はない。
どうやら、今いる男性はとても大事な客らしい。でないと札まで変えて他の客を拒むはずがない。きっとそれだけの重要な話をしていたのだろう。
湊は瞬時にそう判断するが、途端に困ったことに気づいた。
(あれ、これっておれがここにいちゃいけないんじゃないのかな。多分だけど他人に聞かれるとまずい話とかしてたんだろうし。じゃあおれはどこにいればいいんだろう……?)
どうしよう、と考えあぐねて、突っ立ったままでいると、
「湊、お前はこっちに座れ」
紫呉が手招きしながら、反対の手で自分の隣の椅子を示す。
「は、はい」
それにほっとして、湊はすぐさま紫呉の方へと足を向けた。
言われた通り、紫呉の傍にある椅子に腰を下ろし、持っていたバッグを床に置こうとした時である。
「こちらが先ほど話した、うちのバイトの古賀です」
とても聞き覚えのある声から発せられた、これまで一度も聞いたことのない敬語に、湊は下を向いたままで驚愕した。思わず全身に鳥肌が立つ。
(今のって何!?)
勢いよく顔を上げて紫呉の横顔を見ると、紫呉はにこにこと人好きのする笑顔を浮かべ、男性に湊のことを紹介していた。
次には湊を肘でつつきながら、「ほら、自己紹介」と促してくる。
「あ、えっと、古賀湊です……!」
湊は内心で激しく動揺しながらも、男性に一礼し、姿勢を正した。
その姿に男性は柔和な笑みを浮かべて、口を開く。
「僕は田中と申します。古賀くんもよろしくお願いしますね。で、どこまで話してましたっけ」
「絵画がどうの、って辺りですね」
再び会話が始まった紫呉と田中の声に、湊も耳を傾ける。
自分を追い払うことなく横に置いているのだから、きっと話を聞いていてもいいのだろう。
先ほど田中が口にした『古賀くんも』という言葉の意味はまったくわからなかったが、おそらく紫呉が自分をアルバイトだと話したからだろうと、そう受け取っておくことにした。
それから二人の会話を黙って聞こうとしていた湊だが、どうにも落ち着かない。
普段から常に口が悪く、敬語とはまったく無縁そうな紫呉が、ずっと敬語で話しているのだ。
これで落ち着けるわけがない。落ち着けというのがまず無理な話である。
(紫呉さん、何か変なものでも食べたんじゃ……)
こんなことを考えてしまうのも、紫呉の素行を近くで見ていれば仕方のないことだ。
時々、湊は紫呉の様子を横目で窺うが、敬語が異質なだけで見た目は普段と変わらないように見えた。強いてあげれば、たまに真剣な表情を浮かべていたことくらいか。
湊はどうにか集中しようと思うも、聞き慣れない敬語があまりにも気になりすぎて、その耳に二人の会話はほとんど入ってこない。
「では、よろしくお願いします」
しばらくして、田中が立ち上がった。どうやら話が終わったようだ。
田中は何やら小さな紙袋を一つ紫呉に手渡すと、方向転換してドアの方へと向かう。
「詳しいことがわかったらご連絡しますので」
それに続いて、紫呉も腰を上げた。
田中を見送ろうとしているらしいことに気づいた湊も、急いでそれに倣う。
そうして紫呉の背を追うような形でドアの外までついていき、一緒に田中を見送ったのだった。