第56話 頬を伝う雫
リビングの大きな窓からは、午後の眩しい光が差し込んでいる。
湊が目覚めてから数時間が経っていた。
リビングに戻ってきたばかりの湊だが、不意に鳴った電話の音に足を止める。音の正体はパンツのポケットに入っていた自身のスマホだ。
画面を確認すると、『上田真理子さん』と表示されている。沙也の母親だった。連絡先を交換したあとに登録していたことを思い出す。
「はい、古賀です」
すぐに出ると、電話の向こうからは嬉しそうな声が聞こえてきた。
沙也がしっかりと目を覚まし、これまで生霊になっていたことを話したのだという。
詳しい内容までは話してもらえなかったが、それでも元気になってくれて本当によかった。真理子はそう言って、いつの間にか涙ぐんでいた声で、何度も湊にお礼を述べた。
電話を切ると、だいたいの内容を把握したらしいシュウが微笑む。真理子の声が漏れ聞こえていたのだろう。
「よかったね、湊くん」
「はい。でも、何であんなに喉が苦しかったんですかね?」
湊はシュウに向けて頷きながらも、喉に手を当てて、不思議そうに首を捻った。
そこで、紫呉があっさりとネタばらしをする。
「ああ、それな。お前、上田に首絞められてたんだよ」
「ええ!? 首ってどういうことですか!?」
「どういうことも何も、そのままの意味だよ。あいつ、衝動的にお前の首絞めやがった。俺とシュウが止めなかったら、お前今頃は死んでたんだぞ」
予想外の出来事に湊が驚愕した声を上げると、紫呉は「俺たちのおかげで生きてんだからありがたく思えよ」と真顔でさらりと言ってのけた。
「そうだったんですね……」
だから、喉が苦しかったのか。納得すると同時に、紫呉が怒鳴った原因の一端が垣間見えて、湊はまた申し訳ない気持ちになる。
だが、すぐに「さっき謝ったんだからいいか」と開き直ることにした。いつまでも引きずっていても仕方がない。それにもう十分すぎるほどに怒られたのだから。
「きっと沙也さんは紫呉と久々に会えたことで、これまで抑えていた気持ちが膨れ上がってしまったんだろうね。で、万年筆を預けたあとに、それを経由して紫呉に取り憑いたんじゃないかな。湊くんが万年筆から残滓を感じ取ったってことは、多分そんな感じだと思うけど」
シュウは簡単に分析すると、「もう大丈夫そうだし、そろそろ帰るよ」とソファーから腰を上げる。その手にはしっかりと緋桜が握られていた。
布袋に入ったままのそれを見た湊は、緋桜の出番がなかったことに心底安堵する。
「おお、今回は悪かったな」
「シュウさん、ありがとうございました!」
湊は紫呉と一緒になって、そんなシュウの見送りに出たのだった。
※※※
「紫呉さんも元気になったし、これで解決ですかね」
シュウが帰ったあと、リビングに戻ってきた湊と紫呉は並んでソファーに腰を下ろした。
二人の傍では、ツムギが丸くなって眠っている。
紫呉は長い両足を投げだして、ぐっと大きく伸びをした。
「ああ、あとで桜花たちにも連絡しとかねーとな」
「桜花ちゃん、すごく心配してましたからね。でも、紫呉さんは生霊の沙也さんとどんな話をしたんですか? 沙也さんが自分の身体に戻ったってことはちゃんと会話できたんですよね?」
湊は沙也が自分に憑依していた時のことは、一切覚えていない。夢も見ずに、ぐっすりと眠っているような状態だった。
沙也は紫呉に一体何を言いたかったのか、つい気になって聞いてみるが、
「まーな。けど、詳しい内容は企業秘密だ」
紫呉は口元に人差し指を当てて、意味ありげに微笑むだけである。
そう言われてしまってはこれ以上聞けないだろう。湊がそんなことを思った時だった。
「あ……尊さん」
ふと、紫呉の祖父──尊の気配を感じて、湊は小さく声を漏らした。
その様子に、霊の気配を感じられない紫呉が首を傾げる。
「どうした?」
「今、おれたちの目の前に紫呉さんのお祖父さんがいるんです。今回は尊さんが生霊のことを教えてくれたから、紫呉さんを助けられたんですよ」
湊が端的に説明すると、紫呉は目を大きく見開いた。
「じいちゃんが?」
「はい。そのペンダントに宿ってるんです」
思わず聞き返してくる紫呉に、湊は紫呉の胸元で揺れている青いペンダントを指差す。
「これか!?」
「そうです」
素直に肯定した湊の姿を見て、紫呉はペンダントを持ち上げた。それから光に透かしてじっくりと眺める。
その表情はとても穏やかなものだ。
「もともと悪霊が憑いてたいわくつきのやつだから、まだ何かあるんじゃねーかとは思ってたけど、まさかじいちゃんが宿ってたなんてな。そっか、じいちゃんと湊が助けてくれたのか」
「宿ったのは亡くなってからだと思いますけどね。あ、尊さんが何か言いたいみたいです」
「何だって?」
「ちょっと待ってくださいね。尊さん、どうしたんですか?」
すぐさま反応した紫呉に、湊はそう答えて、気配のする方へと顔を向ける。気配はやはりペンダントから感じられた。
『……湊くんのおかげで紫呉も助けられたし、これで成仏できるようになった。今の紫呉には湊くんがいるから、もう大丈夫だな』
姿を現すことなく、尊は優しい声音でそう告げる。
湊にも姿は見えていないが、尊が自ら話してくれるおかげで声はきちんと聞こえていた。
「これでやっと成仏できるらしいです」
「成仏ってことは、願いが叶ったのか。じいちゃんの願いって何だったんだ?」
「『紫呉さんを一度だけ守ること』です。今回紫呉さんが助かったことで、願いが叶ったみたいです。で、今の紫呉さんにはおれがいるからもう大丈夫だって」
おれなんて全然なのに、と湊はつい苦笑を漏らしてしまう。
「じいちゃんは亡くなってからも、ずっと俺のことを傍で見守っててくれたんだな」
紫呉がペンダントを手のひらに乗せて、愛おしそうにそっと指先で撫でた時だ。
『……そろそろ行くかな』
湊の耳にまた尊の声が届く。
「……あ、もうですか?」
「今度は何だ?」
「そろそろ成仏するそうです」
「そうか。もっとゆっくりしてけばいいのにな」
紫呉の表情は、心なしか悲しげだった。
そこでまた尊の声が聞こえてくる。
『……ゆっくりしていると、成仏したくなくなってしまうからな。湊くん、これからも紫呉のことを頼む』
「わかりました」
湊は尊を安心させるように、しっかりと頷いてみせた。
すると、尊の気配が徐々に天井の方へと上がっていくのを感じる。ペンダントから抜け出したのだろう。
消える直前、ほんの少しだけ尊が姿を現した。
突然現れた尊の姿に、湊の視線を追っていた紫呉が瞠目する。だが、すぐに尊の穏やかな顔に向けて、静かに言葉を紡いだ。
「……じいちゃん、俺ちゃんと店守っていくから。そしてもっとたくさんの霊の願いを、湊と一緒に叶えてやる」
紫呉がしっかりと言い切って微笑むと、尊は無言で満足そうに一つ頷いて、そのまま霧散するように消え去った。
尊の気配がすっかり消えたあと、湊はふと隣に顔を向ける。
そこには、まだ天井を見つめたままの紫呉の横顔があった。
その頬を一筋の雫が静かに伝い落ちていく。
湊はテーブルの上に置いてあったティッシュを箱ごと手にすると、黙ったまま紫呉に差し出したのだった。




