第55話 『大馬鹿者』
沙也の生霊が姿を消してから、数十分ほど経って。
ゆっくり、静かに湊の意識が覚醒する。
そっと薄く瞼を上げた湊の視界に入ってきたのは、見慣れない和室の天井だった。
(ここ、どこだろう……)
ぼんやり考えながら辺りに視線を巡らせると、シュウの心配そうな顔が見えた。
途端に、湊はこれまでのことを一気に思い出す。
「生霊はどうなったんですか!?」
勢いよく上半身を起こし、声を上げるが、すぐに喉の苦しさで咳き込んだ。なぜ喉が苦しいのか、湊にはまったくわからない。
涙を浮かべながら咳き込んでいると、
「湊くん、大丈夫? 生霊はちゃんと自分の身体に戻ったはずだよ。もう気配を感じないでしょ」
シュウが優しい声でそう言って、湊の背中をさすってくれた。
そこで湊は自分が客間で寝ていたことを知る。今いるのは、先ほどまで紫呉が寝ていた布団の上だ。きちんとタオルケットもかけられていた。
湊がすぐさま生霊だった沙也の気配を探る。
「……はい。もう何も感じないです。あ、紫呉さんはどうなったんですか!?」
タオルケットを慌ててはぎ取った時だ。
「……湊」
唸るような声が聞こえてきて、湊は反射的に声のした方へと顔を向けた。
シュウの斜め後ろ。そこには、あぐらをかいて座る紫呉がいる。しかし、その顔は不機嫌そうにしかめられていた。
「……はい?」
紫呉が無事なことにほっとしながらも、湊は「何だろう?」と首を傾げる。
安心したのも束の間だった。
湊の顔を見据えた紫呉が、突然すごい剣幕で怒鳴ったのである。
「お前は大馬鹿者だ! 俺のことなんて放っておけばこんな危険に巻き込まれずに済んだだろ!」
湊はびくりと大きく身体を震わせて、息を呑んだ。きつく目を閉じる。
紫呉は常に口も態度も悪い。だが、これまで一度も湊に向けて『馬鹿』などとは言わなかった。
その言葉が出てくるということは、今の紫呉は相当激昂しているのだろう。怒りに任せていると言ってもいいかもしれない。
しかし、そこまで把握した湊も負けてはいない。すぐに目を開いて、声を取り戻す。両の拳を強く握ると、負けじと大声で言い返した。
「でも、それだといつまでも紫呉さんと沙也さんが救われません! あんなに苦しんでる紫呉さんの姿なんて見たくなかった!」
「お前……っ!」
怯まない湊と紫呉が睨み合う。
湊がさらに言い募ろうとした時、やんわりと仲裁に入ってきたのはシュウだ。
「紫呉も湊くんも、少し落ち着いて。紫呉は助けてもらった側でしょ。いきなり怒鳴るのはないんじゃない?」
その言葉に紫呉は前髪をかき上げると、ようやく諦めたように嘆息する。
「……いや、頭ではわかってるんだ。お前が俺たちのために頑張ってくれたことは。でも自ら危険に飛び込むような真似はするな。俺だけじゃなく自分のことも大事にしてくれ。頼む」
うつむきがちに発せられた紫呉の声は、かすかに震えているようにも聞こえた。
きっと、湊のことを心から心配してくれたのだろう。
「……すみませんでした」
そんな紫呉に、湊は小声で一言だけ返すのが精一杯だった。
だが、申し訳ないとは思っても、後悔などは一切していない。
そこで、苦笑を浮かべたシュウが紫呉に顔を向ける。
「紫呉は他にも言いたいことあるんでしょ?」
促された紫呉は気まずげに湊から顔を背けると、これまた言いにくそうに小さな声で細々と言葉を紡いだ。
「……湊。今回は助かった。ありがとう」




