第53話 憑依
ようやくシュウの許可をもらった湊が、紫呉の方に身体を向ける。
紫呉は眠ったまま、今も荒い呼吸を繰り返していた。
「おれの声、聞こえてましたよね?」
優しい声音は、紫呉に取り憑いている生霊に対してのものである。
きっと生霊は、紫呉の中でこれまでの会話を聞いていただろう。湊はそう信じて疑わなかった。
だが、まだ生霊が姿を現す気配はない。
湊は居ずまいを正し、人好きのする笑顔をみせる。
「これからあなたにおれの身体を貸します。だから、紫呉さんから一旦離れてもらえませんか? お願いします」
そして、礼儀正しく頭を下げた。
変化は少しして起こった。
「……っ!」
突然のことに湊が瞠目する。おそらく隣のシュウも同じだったはずだ。
これまでほんのわずかにしか感じられなかった生霊の気配が、いきなり膨れ上がったのである。
次に認識できたのは、紫呉の上に現れた、生気のない青白い顔と長い髪。
今の湊はコンタクトレンズをつけていない。だから、生霊の姿がはっきりと見える。
(ああ、やっぱり女の人だったんだ)
どこかほっとしながら浮かんだ感想は、なぜかそれだけだった。
前に見た悪霊とは違って、怖いとはまったく思わなかった。黒いもやのようなものも見えないし、きっと悪霊寄りではないのだろう。そのことにさらに安堵する。
あとは紫呉の身体から抜け出して、自分に憑依してくれればいい。
そう願って、湊は静かに瞼を伏せた。
※※※
シュウには、生霊が紫呉から離れ、湊の中に入っていく様子がしっかりと見えていた。
意識を失った湊の身体が、ゆっくりと畳の上に倒れる。
「湊くん!」
反射的にシュウが声を上げ、片膝を立てた。
その次の瞬間である。
「……シュウ……どうして、お前がここにいるんだ……?」
掠れた声が聞こえてきて、とっさにシュウの視線と意識はそちらへと持っていかれた。
視線の先にあるのは、目を覚ました紫呉の姿だ。
「紫呉……。よかった」
シュウが心底安心したように目を細めて息を吐くと、紫呉は上半身を起こしながら首を傾げる。
どうやら現在の状況がわかっていないらしい。これまでずっとうなされていたのだから、当然の反応だろう。
紫呉は汗で額に張りついた前髪を雑にかき上げて、疲れたように大きく息を吐いた。
「……これはどういうことだ? 退院して家に帰ってきたところまでしか記憶がねぇ」
「ああ、そうだね。ちゃんと説明──」
「ちょっと待て。何で湊が倒れてる? まさか寝てるわけじゃねーよな? 一体何があった?」
シュウが説明しようと口を開いた時である。紫呉は近くに倒れている湊の姿を見つけて、途端に声を低めた。
紫呉の声に反応したのか、湊が黙ったまま起き上がる。
「……」
きちんと正座はしたものの、紫呉に向ける表情はどこか虚ろだった。いつもは透き通っている左目の青も、今は光を失い暗く濁っている。
「湊! おい、どうした!?」
様子がおかしいことに気づいた紫呉は前のめりになって、すぐさま湊の傍へ寄ろうとした。
その時だ。
『……月城くん』
紫呉の動きを止めたのは、湊の声である。いや、正確には湊の口から発せられた女性の声。
「……どういうことだ」
目を大きく開いた紫呉は、怪訝そうに唸ると、湊をまっすぐに見据えたのだった。




